終幕 駆ける
双つのメテオ
光陰矢のごとし、とはよく言ったもので、あっという間に時は過ぎ去り――私たちは、気づけば大学生になっていた。
肌寒い季節、十二月も半ばに近づくと、いつもあの日々のことを思い出す。
感傷と名づけるにはあまりにも得がたく、優しすぎた。
傷つくことはあったけど、歳を重ねた今になってみると、「あー、私たち若かったよねー」と懐かしめる傷だ。黒歴史と呼べるかもしれないけど、思い出すのは苦じゃなかった。
肩からズレ落ちそうになっているショルダーバックをかけ直し、キャンパスを歩く。
その時、遠くの方で私を呼ぶ声が聞こえてきた気がした。振り返れば、白い息を吐きながら煌が駆け寄ってくる。
「夕!」
煌はひたすらにこにこしていて、その姿といい、まるで飼い主を出迎える柴犬みたいだ。我ながら言いえて妙よね。
立ち止まってくすくす笑っていると、煌が私の隣に立ち、不思議そうな顔をする。
「なにかおかしなことでもあったわけ?」
「ううん? これといってないわ。でもそうね――昔のことを思い出していたのよ」
「昔……もしかして、アレ?」
「そう、アレよ」
私たちの間じゃ、あの日々は『アレ』で通じるようになっていた。
『アレ』――私たちがスヴェイダールという、異世界に召喚された信じがたい出来事のことだ。それはまるで天変地異のように、私たちの関係性も変化した。
自宅に帰ってきた時、私たちの手元にあったはずの鏡も本も消えていた。驚くべきことはそれだけじゃなかった。
スヴェイダール――異世界に滞在した時間だけ、こっちの時間も過ぎていると思えば違っていたのだ。携帯の時計を確認してみると、なんと異世界に行ったその日という不思議さ。
まるで狐か狸に化かされたような心境になり、夢でも見ていたんじゃないかって不安になった。
でも私だけじゃなくて、煌にも異世界での記憶があったから夢じゃなくて、現実だったんだろう。私たちはそう、信じている。
だって、夢オチで片づけるにはあまりに色々なことが起こりすぎた。そしてだからこそ、今の私たちがあるのだ。
あの頃のささくれ立った私のエピソードは、よく煌の酒の肴にされて笑われている。そのたびに恥ずかしい思いをしているけど、こっちだって負けちゃいない。暴露し返しては一緒に悶える、という本当にあの頃じゃ考えられないことをやっていた。
今の私は素直に煌と過ごす日々を楽しいと思えるし、好きだと言える。だからいくら感謝しても感謝しきれない。
それでも、この時期になると心の内に落ちる影があった。遠くを見つめ、ぽつりと漏らしてみる。
「……あれからみんな、どうしているのかしらね」
「さあ? 元気にやってんじゃないの。どいつもこいつも図太かったし」
「それ、絶対煌には言われたくないって思うわよ」
真顔で突っこんであげれば、「私は図太いんじゃないの、正直なだけ!」というどーしようもない抗議が返ってくる。
……まあ好きに言わせといてあげようかしらね、うん。
あえてスルーすれば煌が騒ぎ出す。猫パンチを躱しながら笑っていると、肌寒い風が頬を撫ぜ、ぶるっと体が震えた。
ううう、もっと厚着をしてくればよかったわ。一段と冷えこんだ今日に、薄手のタートルネックにジーンズなんてバカげている。でもそれ以上にバカげているのは……。
「……ねえ、煌。そんなミニスカートを穿いて寒くないの?」
「女はお洒落のためならどんなことも我慢できる特性があるのさ! それに、今日はヤマトと出かけるし!」
そう言った煌の目元は赤らんでいる。寒さもあるのかもしれないけど、別の要因が絡んでいるのは間違いないだろう。
高校生時代、私に好きだと告白してくれた彼――佐東大和くんは、今では煌の恋人だった。家族以外で煌の暴走を食い止められる唯一の人間であるところからして、その人間性の偉大さはよく解るはずだ。事実よくデキた人間で、煌にはもったいない好青年である。
私は煌から彼と付き合うことになったと知らされた時、「ああ、聖人はこんな近くにいたのね!」って神様に感謝したくなったもの。
その私はというと、彼氏いない歴を絶賛更新中である。これぞ! ってびびってくる人にいまだ出逢えていないから、実は煌の浮かれ具合がちょっと羨ましかったりもする。昔より華やかに、それでいて綺麗になった。
「さいですか」
「さいですよ。……で、夕はどうなのさ? この間、無理やりコンパに連れて行かれていただろ?」
「見てたなら助けてくれてもいいんじゃないの? ……まあいつも通りだったわ。なんか心にこないっていうか、好みじゃないっていうか」
「……あんな高校生時代、恋をしまくっていた夕がこんなに枯れるなんて……」
いかにも嘆かわしいというように天を仰がれたけど、煌に言われたくないセリフトップ三にランクインするものだった。
「なんでか呼び出しを受けた私より先回りして、その都度ぶっ壊してくれた煌に言われたくないわよ。お陰で私、シスコンとかリアル百合姉妹とか不名誉な噂を囁かれていたんだからね! お姉さまって呼んでいいですかって、後輩に照れながら言われた時は、本当煌を殺して私だけ生きるって心境を味わわせてもらったわ」
「だーって、あいつら夕のタイプじゃなかっただろう? 私は断りづらいであろう夕のためを思ってやったんだ。っていうか、私の義兄になる可能性もあるわけだろう? あんな芋みたいなヤツらに、そんな可能性があること自体虫唾が走るからぶっ壊しただけ。……っていうかその後輩、誰? 教えてほしいなぁ」
「って、結局自分本位かいっ。よく前半でぬけぬけと私のためとか言えたものよね。あと後輩の名前は教えないからね、なにされるか解ったものじゃないわ」
「そんなに褒めないで」
「……佐東くんってえらいなぁって改めて実感したわ。佐東くんを逃しちゃダメよ、これを逃したら孤独死確定になっちゃうんだからね!」
「孤独死って、それって夕の未来予想図のこと?」
見事なアルカイックスマイルを浮かべる煌に、私もにっこりと笑い返す。それから脛を蹴り飛ばした。
「いったー! なにすんのさ!? 図星だからって暴力反対! これからヤマトに逢うのに、青あざできたらどうしてくれんの!」
「……煌、優しいお姉様が賢い言葉を教えてあげるわ。口はね、災いの元っていうのよ!」
盛大に上がるブーイングを無視し、私は歩みを再開させる。
まったく、人が気にしていることをずけずけと……でもいっそ、一生独身でもいいかもしれない。
まだ二十代なんだからそう悲観することもないんだろうけど、異世界で出逢った彼ら以上に惹かれる人間と出逢う日なんて来るのかしら? まったく想像できなかった。
ほうと溜め息をついてすぐ、私は辺りを見回した。
「どうかしたの?」
「いや……今、なんか……どこかで聴いたような声が……」
「はっ、声?」
目をぱちくりさせる煌に頷く。でも該当するような人物を見つけられず、釈然としなかった。
幻聴にしてははっきりしているし、あまりに綺麗な――――そこまで考えたところで、今度こそ明確な輪郭を伴った呼び声が横合いから響く。
「我が御子!」
「み、みこぉ?」
いかにもなフレーズ。一時期飽きるほど耳にしていた言葉に、ほとんど脊髄反射で声の発生源を見た。
駆けてくるのは、あまりに美しすぎてブラウン管の中にだっていられないだろう男。大学のキャンパスにいちゃいけないどころか、なんでいるのかも理解できない姿だ。
右目にかけたモノクルを曇らせ、艶のある灰闇色に染まったおかっぱを揺らしている。記憶にあるそれより短くなっていて、黒耀石の双眸は星屑でもまぶされているみたいに輝いていた。
水すら一瞬で凍りつきそうなほどに冴え冴えとした氷の美貌は相変わらずだけど、その白い頬が上気している。あまりの出来事に、私の思考回路も見事なほど凍りつき、立ち尽くしてしまった。
どんどん距離が縮まっていく。そしてあっと思った次の瞬間には腕の中に抱きこまれ、挙句顎を掬われると、目と鼻の先に絶世の美貌があった。それから遅れて、唇に熱いのに柔らかい感触が押しつけられていることに気づく。
「んっ、んー!?」
慌てて突き放そうとするも、腕に力をこめられるだけに終わった。っていうかこ、この人、唇、わ、わわわ割って……!? 歯が! 舌が! もう支離滅裂だった。
火山が噴火する心象風景が過ぎった気がしたけど、脳内に住まう小人たちはすでに仕事をボイコットしている。
満足したのかは解らないけど、しばらくして唇が解放される。私にとったら数分程度どころじゃなかったけど、それでもまだなにも言えなかった。というかなにを言えっていうの、この状況で!?
「我が御子……逢いたかった……」
耳元で、睦言のような甘い囁きが落とされる。玲瓏とした鈴の音のような涼やかさを帯びながら、腰が抜けてしまいそうな色気がこめられていて、全身が火照ってくる。
今度は両頬を包みこまれ、私の顔を覗きこんでくる男がうっそりと笑う。
「貴女は変わりませんね。すぐに貴女だと解りましたよ」
「な、なななななんで……」
「ああ、私がここに来た方法ですか? 神である権限を使ったのです。貴女の隣で過ごせるよう、ちょっと介入させてもらいましてね……お陰で神としての姿は喪いましたが、私は少しも後悔していません。これが、私の選んだ身の振り方ですから」
そう言うと、またキスをしてきた。
ぎゃー! 私は心の中で絶叫する。んなこと訊いてない! とは、口が塞がれていることで言いようがなかった。
っていうか! 一度目も二度目も三度目も抵抗する暇がないとかどういうことじゃい! もういっぱいいっぱいで、目が回りだした。
ど、うしよう……このまま気絶してしまいたい……というか夢にならないかしら……。
意識が遠のく気配を感じる反面、急速に覚醒する。喉元に圧迫感を覚えたのだ。咳きこみながら、後方に放り投げるように引っ張られる。
……なーんか、このシチュエーション……覚えがあるよーな、ないよーな? そのデジャヴュを裏づけるかのような怒号が鼓膜を震わせた。
「ユウに手を出すな!」
「……おやおや、これは当て馬のお出ましですか。残念ながら、彼女は私のものです。よって貴様の出番はありません、帰れ」
「それはお前に返す! 油断も隙もないとはお前のことだ! 彼女は、僕のだ!」
私の視界に立ちはだかるのは、黒い背中――一時期ひどく見慣れた、ローブだ。
わ、わわわ……な、なぜ? どうしてこんなことに? ほとんど唖然としていたけど、なんとか声を絞り出す。
「なんで、ここに……?」
「叶の神、ヴュンテ=ウェイに願った。やっぱり、君が傍にいないことに耐えられなくて……約束を破ってしまった。だけど、僕はどうしても君と共に歩きたかった。君が生きる、君の世界で」
振り返った彼の美貌は陰鬱さに磨きがかかっていた。お、おおお……久々に見ると本当に美形なゾンビみたいよね……。
発散されていた陽炎のような怒気は四散し、私に熱をこめて話しかけてくる。それに不服と、柳眉を釣り上げたキス魔が彼の肩を掴んだ。
激昂するキス魔は迫力を増し、より一層美しく高められた美貌をしかめてみせる。
「私の前で、彼女に手を出そうなどいい度胸ですね」
「それはこっちのセリフ」
二人の間にはばちばちと火花が散っている。睨み合う姿にハッと我に返り、ようやく周囲に目を向けることができた。
……私たちの周囲には野次馬が集まっている。逃げ出したくなるような野次の数に、現実逃避から「もう、このキャンパスを歩けないなー……あははは……」なんてことを冷静に考えた。
誰かが「これ、ドラマの撮影?」とか言っているけど、そうであったらどれほどよかったか! 誰か! 私にこのカオスな状況を説明して!
羞恥心に耐え切れず、手遅れながらもショルダーバックで顔を隠した。今すぐ透明人間になれたら……! 歯軋りをしていると、衝撃から立ち直ったらしい煌がカッと目を見開いた。
それは地獄の番人のごとき悪鬼の形相であり、スーパーサイヤ人のように髪が逆立っている幻覚さえ見える。
「きぃみぃたぁちぃ……」
「おや、客星の娘ですか。お変わりになりましたね」
「……久方ぶり」
「黙れ! 君たちの振る舞いは万死に値する、地獄に行けっ」
何食わぬ顔で挨拶する二人にぶち切れたのか、私の代わりになって煌が大暴れしはじめた。煌無双といった感じである。
辺りは野次馬も巻きこんだ阿鼻叫喚といった有様となり、問答無用で渦中に叩きこまれた私はよろめき、近くの街灯に縋りつく。
わ、わたし……退学させられるかも……。身震いしながら、ショルダーバックから携帯を取り出す。
早く佐東くんを呼び出さなきゃ……私の未来が危うい……いやすでに人生積んだ気はしないでもなかった。
理性を振り切った煌から逃げ惑う二人――ネルウァさんとフェッシルさんによって、私の平穏だった日々は呆気なく終わりを告げた。
平凡なキャンパスに、流星のような鮮烈さを伴って降り立った二人を見つめながら、震える指先で携帯のボタンをプッシュする。
それでもどうしてかな。
恐怖や混乱なんかの他に、ある種の期待感のようなものが胸中に芽吹いていた。
それがどんな風に育つのかは解らないけど、けっして悪いものじゃない予感がある。だけどまずは、現状をどうにかすべきだろう。
電話口の向こうでコールが鳴り響く。どこか警鐘にも似ている気がして、私はほんの少しだけ笑みを作ることができた。
「危険な道ほど惹き寄せられるとは、よく言ったものね」
どんな結末を呼ぶことになろうとも、私はきっと後悔しないだろう。だってそれを選び、掴み取ったのは自分自身なのだから。
それは彼らから教わった、星の煌めきのように美しい――私にとっての真理だった。
Fin...
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