有意義な暇潰し
ヒールの高いサンダルで来たことを後悔した。絨毯が敷かれてはいるものの、静まり返った図書館では微かな足音すら耳障りになる。はやいとこ目当ての本を見つけて座ってしまおう。お昼時だからか閲覧席にはけっこう空きがあった。
文庫本を数冊手に取り一番奥の席に陣取る。すぐに凌も横の席に着いた。手元には緑の装丁の単行本。目に入って胸が高鳴る。声を掛けようとしたけど寸でのところで思いとどまって、ひとさし指で左肩を2度つついた。少しの間があってから、なに、というように首でこちらを向く。私は件の本を指差して含み笑いを浮かべた。
「……?」
わかんない、と寄せられた眉が告げている。ったくもう今に限ってなんで鈍いのよ。私はバッグからメモ帳を一枚取り出し、書きやすくてお気に入りの油性ボールペンで書き付けた。
“私が薦めた本だね”
文字にすると、恥ずかしい。背中全体が無性にかゆくなる感じ。凌は差し出された短いラブレターをちらり一瞥して、照れ隠しのようにため息をつくと読書の世界へ一足早く行ってしまわれた。
私もあとを追って文庫本を開く。物語への扉と現実への扉が逆転し、背後でパタリ世界への足がかりが静かに閉ざされた。この感覚が読書の醍醐味ってヤツで、病み付きになってしまった私は文学少女ってヤツなのだろう。
適当に選んだ小説は早い話がハズレだった。取り換えに立つのも面倒で惰性のままに文字を食っていると、脳天からじわじわ睡魔が降りてくる。ツマラナイ文章は睡眠導入剤にもってこい。投与されると背後の扉は再び開き、眠りへと滞りなく誘ってくれるのだった。
机に突っ伏して仮眠をとることにする。瞼を閉じる瞬間に盗み見た凌の横顔は、すっかりあちら側のリアリティに色付いていた。お気に召したようでよかった。
夢はクライマックスの真っ最中である。20歳年上の幼稚園教師を探して走りくたびれ、ようやく彼女の家の門を叩いたところ。
不意に、ひやりとした感触が割り込んできた。
それは温度を上昇させ続け、不器用な繊細さでもって私の首筋を這い回る。夢の稜線は土台を失いさらさらと崩れていった。現実に引き戻された私の瞳が真っ先にとらえたのは、右耳に沿わされた掌。首筋の熱は歩くのをやめ一点に留まっている。目覚めた私に気づいたらしい凌はあっという間に全接触を断ってしまった。
静寂へ巻き戻される。私からは見えない私の上、熱情と湿度だけが残された。
それから無事アタリの本を1冊読み終えて図書館を出、向かいの31アイスクリームの店舗に入った。真夏の雪だるま大作戦。
「うー、ただでさえ種類多いのに」
優柔不断を炸裂させた凌は混雑した店内で10分弱もかけて悩み、結局バニラと抹茶という超シンプルな取り合わせを持って帰ってきた。
「隣の公園で食べよ?」
「うん」
このとき凌が止めてくれていたら私のタオルは無事だった、なんてことは言っても仕方がないのだけど。――炎天下でアイスを食べてはいけない、何故なら溶けるから。という基本的常識的感覚が私たちには欠如していたらしい。
食べるスピードなんて楽々上回り、アイスはだらだらとコーンの上を滑り落ち指に纏わりついた。べとりして気持ちが悪い。タオルで拭うとあっという間に花柄がチョコレート色へ変化した。
「バカだねあたしら」
「ね。でも紙一重で天才の側に行けないかなぁ」
ふざけた口上かましつつ、苦笑する凌の手首を持ち上げる。僅かな躊躇はシカトして中指に絡まったバニラアイスを舐め取った。徐々に甘さから慣れた肌の味へと転じていく。音を立てぬよう唾液の量や舌先の角度に留意して動く。もう図書館の中ではないけれど、静寂の余韻は案外長持ちするものだ。
「……あの、そろそろいい?」
猛暑日の太陽の下では木陰もたいした気休めにはならない。汗を全身にかいてサンダルの爪先をじれったくなびかせて。凌が切なげに息を呑んだのを確かめてから口を離した。ぺちゃっ、と水音がする。
「ゴメン。結局ベタベタになっちゃったね、私もアイス食べたし」
「別にいいけど、真昼間から外でってのはどうかと」
「あらご自分は棚に上げちゃって。屋内なら公共の施設でもいいってワケ?」
凌といて、こういうやり取りが一番楽しい。
「ごめんなさい」
「濡れた?」
「セクハラ女め」
私は頭の内がじんじんしてた。くすぐったさがこびりついて離れず、目を閉じれば八方をノイズに囲まれる。ちょっとでも触れられると視界にチカチカ光が舞った。
「涼しいとこ行って」
「シャワー浴びよっか」
「それから?」
「また汗かき直そう」
以心伝心である。
「ね、さっきの本どうだった?」
目の前の髪が細やかに顔に貼り付いていた。きっと自分も。コンクリートの照り返しはかなりハードだ。いきすぎた暑さは最早痛みに感じられる。早くクーラーに当たりたいと願う反面、彼女とこの状況を共有するのもそれなりに価値ある楽しい選択に響いてきた。足の裏が震える。
「早苗の好きそうな本だ、って思いながら読んでた」
――この返事は、涼しい場所で言わせるべきだったかも。
頬が赤いのは暑いから? それともさっきの続きだろうか? いつもなら見極められる初手の初手も、いろんな熱に浮かされたカラダじゃ判別不可能。
凌がやわらかくはにかめば、蘇ったバニラの風味が広がる世界を縦に揺らした。
[10/08/16]
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