あなたが髪を切ったから
わたしはひとと目を合わせるのが苦手で、でも外じゃ柔らかい笑顔の下に黒い視線の曲者優等生的な役回りになっているというかしているというか、とにかくかたくなに強く振る舞っているので誰も信じてくれない。と思う。誰に言ったこともないからわからないけど。普段は、相手の顎のあたりを見て喋っている。
螺旋階段を下ってリビング(その一)に出ると実子が制服のままソファであぐらをかいていた。どこ見てんのかわからない危うい雰囲気。わたしは観られてもいないテレビの電源を落とし冷蔵庫(その二)に向かう。ハロウィン仕様のゼリーといつもの緑茶をお盆に乗せ、革の上に腰掛けた。実子はこちらを見もせず視線を空にさまよわせている。
「制服着替えるくらいしたら?」
「ん」
「今帰ってきたの?」
「ん」
「なによその生返事」
「……」
すぐさま後悔した。適当でも返事が返ってこないよりはいい。
私が通う高校のよりも遥かに可愛い緑のチェックスカートから脚をぶらぶらと伸ばし、ふいにこちらを振り向いた。この世で一番苦手な黒目にとらえられる。
「お姉ちゃん」
静かで芯のある物言いは姉として誇らしくあると同時に、ときどき背筋がひやっとさせられる。みぞおちに単語が落ちてくる感覚。ずしりと重いそれは鈍くわたしを痛めつけた。必死に抗うように口を開く。
「……なに? あらたまって」
「今日さ」
胸のなかにはわるい予感がうまれはじめていた。で、先見の才にわたしは恵まれすぎている。
「クラスの男子に告られた」
付き合ってくださいって。この掌に風化した黒髪がさらさらと指をこぼれていく。
数学のノートみして、という声を返るとポニーテールをほどいた和希が呆れた口許で立っている。机から水色のルーズリーフを探り出して渡した。
「どうしたのおまえ」
「おまえってよばないで」
「いつも気持ち悪く喜んでんじゃん。どうしたんですか芽依さん」
気持ち悪くとは心外だ。夫婦間に見られる「おまえ―あなた」「支配する人―される人」構造をどちらかというと悪意をもってデフォルメした渾身のギャグだというのに。ってそんなことはどうだっていい。
「二項定理で寝てたわけ? 余裕で羨ましいわ」
「そんな畏れ多い。今日へんだよ芽依」
弱味を見せちゃいけないと条件反射に思考がはたらく。ちょっと朝頭痛がしてね、ときわめて自然に答えている恐ろしさ。口をついて出た言葉のなかにひとつの偽りも含まれなかった日なんて物心ついて以来たぶん、ない。下手にこなせてしまうから余計に加速するのだ。
「朝? いまは?」
「ん、もうだいぶ軽くなった。ご心配ありがと」
そうよかった、という和希の言葉をつごうよく素直に聞いて席を立つ。
「……べつにさらけだすのが友情じゃあないけどさ」
いつになくシリアスな口調に驚いて踵を返すと、和希はなにもかも見透かすように頭を掻いていた。
「話してくれなくたって構わないけど、芽依が機嫌わるいのはかなしいよ」
このひともかなり嘘つきな部類。わたしとは違って良性だけど。その和希が本心から頬を染め、嫌っているかっこわるさに近付ききってまで語り掛けてくれている、のだ。
「怖いのまちがいじゃないの?」
求められていないサービス精神と極上のスマイル。くすぐったそうに笑った和希に追い付いていけてない。
大好きなひとがいる。
玄関のドアを開けるとすぐさまリビング(その二)から口論が耳にはいってきて、わたしはOFFにしかけたスイッチを再び入れなおす羽目になった。巻き込まれないように部屋まで戻るのは決して無理じゃない。ないけど、わたしには実子を助けにいく役目があるのだ。母親によわい妹を、理詰めと懐柔で。
「ただいま」
「芽依。ちょっと聞いてよ実子が――」
なあにおかあさん、と愛想良く応える。実子はわざとらしいほど不機嫌に机で頬杖をついていた。こちらに一瞥をくれると携帯を開いていじり出す。わたしは論理を編み出す準備をはじめた。頭を、使うのである。言うなれば弁護人、公平な目線である必要はない。
「中学受験なんてしなきゃよかった、っていきなり言うのよ。私がプレッシャーかけて強要したって」
材料一:過去の親の理不尽による子の不満
「二年前はなにも言わなかったのによ? いまさらみんなみたいに友達と遊んでたかったなんて泣かれても」
材料二:子供時代に周囲から浮かなければならなかった不自由
「どうして今それを言うのよって聞いたら、お姉ちゃんを見て羨ましくなったんだって」
「……え?」
実子の瞳はもう液晶を向いていなかった。得意の論理はぱらぱらと崩れ落ちていく。
気がつくと窓の外はすっかり暗い。口火は切られた。
「いいよねお姉ちゃんは。自分で決めた志望校に自分で合格して目一杯楽しんでる。タニンに指図されっぱなしだったあたしとはちがって」
「あんた親に向かって他人なんて――」
材料三:!ERROR!
母の悲鳴も実子の涙声もだいぶ遠く感じる。いつもわたしをたしなめる。わたしなんかより要領の良い実子。が、どうして?
「ほんとはあたし、お姉ちゃんと同じ学校に行きたかったのに」
材料四:!ERROR!
泣いてすがってびくびくしてるのはわたしのほうだ。妬む理由がどこにある?
「いい加減にしなさい!」
母の一声で部屋は静まり返った。ずぶずぶとぬかるみへ沈んでいくリビングルーム(その二)。足場がぐらつくのを感じながら母の顔色を窺うと、予想通り混乱と怒りに染まっている。
「だれが指図しっぱなしだったって? ちゃんとあなたの意向も聞いたじゃない。お互い確かに異存はなかったはずよ、あのときは。それを二年も経ってから……ふざけないで!」
当人じゃないとはいえ同じ屋根の下で暮らしていればわかる、母の言い分が事実であることは間違いない。なぜ実子はそんなにも突っかかるのだろう。
「お母さんはあたしの意見なんて聞きもしなかった」
どちらが叩いたのか、だん、と机が音を立てた。
「出任せ並べるのはやめて。だいたいお姉ちゃんお姉ちゃんって、好きな人と結婚もできない芽依に羨ましいなんて失礼とおもわ」
……ないの、と蚊の鳴くような声で。
言っちゃったね、おかあさん。
実子は静かに自室に戻りとうとう翌朝まで姿を見せなかった。
「おっはよ」
肩に置かれた手が、セーター越しなのに熱い。早朝の新宿駅中央線ホーム、人混みのなかでも毎日あえる。
「おはよう和希」
ローファーのかかとでくるりと可愛らしくまわってお辞儀をひとつ。和希はきれいな青の綿パーカーを羽織っていた。足元はお揃いのハルタ(全国一気にオソロである)。
「やっぱり寒色似合うね。どこの?」
「ありがと。ブランド名忘れたけど地元のマルイで」
ごうっ、と風がどこからか吹き抜ける。風景に同化する女子高生、日常に溶け出すわたしたち。
「あ、今日おべんとなくってさ。学食行かせて?」
上目遣いでちいさく合掌。和希はどうぞどうぞと恭しい一礼をする。
風と轟音と光を伴い橙ラインの列車が姿を表した。和希の袖を掴み比較的空いた車内に乗り込む。運良く窓際のスタンディングスペース(いま考えた)が取れた。
流れていく朝の景色を横目に、和希がわたしの顔を凝視しているのに気づく。不意打ち過ぎて見つめ返せなかった。間を埋めるべく質問投下。
「なあにー? ひとのことじろじろ見ちゃって。愛は五秒の眼力で伝わるって言いますけど」
「饒舌」
「あらま誉められちゃった」
ブランク。
「もう平気?」
ブランク。
「うん平気。わたしはいつだってタフだもん」
ぎこちない口角が大久保駅を通過した。
「タフじゃなきゃ乗りきれないなにかだったんだ?」
だとしたらなんだって言うのよ、って悪態が口をついて出掛けたけどあまりにも理性的でないのでやめる。それに和希相手にそんな子どもの駄々が微塵でも利くとは思えなかった。
「大丈夫だよほんとに。全然大したことないし打たれなれてるし」
大したことに打たれたってこと。
「語るに落ちてるね」
和希はかるく眉を寄せてから、やさしい面持ちになって、つたない手つきでわたしの頭を撫ぜてくれた。
黄色いトレーを両手で持って、お茶をこぼさないように気を付けながら扉をくぐる。ほどよく陽の当たっている芝生に腰かけて一息ついた。人通りが少ないエリア。学食のなかでは生徒たちの会話があちこちから大ボリュームで響いているため、ゆっくりお話ししながらランチなんてとても無理な話だ。
一限の授業のテーマは「妊娠・中絶・結婚」。拒否反応を起こしてなるべく話を聞かないようにと内職していたら珍しく真っ向から注意された。
もしあなたがいま妊娠してしまったら。
「ええと……生むことはない、と思います」
歯切れの悪いわたしの返事は早々に流されてしまったけど、和希のストレートな怒りは教室後方から十分感じられた。
「怒ってくれなくてもよかったのに」
「え?」と和希はお弁当の蓋をはずす。三色ご飯。
「少数者は殺されるもんだよ。慣れてるしいまさら傷つかない」
いただきますをしてドリアを一口味わう。和希は手を止めてなにか考えているみたいだった。
「芽依ってさ」
「うん?」
「本気でひとを好きになったこと、ある?」
頭上からおりてくる数枚の葉が空中で停止する。次の瞬間頭がカッと熱くなって、なにかを投げつけてやろうとあたりを探った結果和希は顔で熱々のおしぼりを受けることとなった。
「バカにしてるの?」
「……ごめん」
いきなり飛んできたブツに文句も言わずしょげている和希はかわいかったけど、だけどやっぱり憤りが勝る。というよりは八つ当たりだ。どうせかなわないから。
「好きな人ぐらいいるよ」
「今?」
「今。この場で」
和希の目がまるく見開かれた。この場で?と返されたのでこの場で、とにっこり微笑む。みがまえられる気配、減らないそぼろご飯。
「やだな。半分は冗談よ」
緊張は解かれて和希はなんだとちょっとだけひきつりつつ苦笑した。
予定調和のように実子の顔がよぎる。憎たらしく見下ろす目付き、加えて不気味な優しさでよろしくと手をさしのべたあの男のそれ。その後母に手を引かれた狭い部屋。
和希はようやく昼食に手をつけはじめた。普通にただならぬ憧れを抱いてる。
バスローブの紐を締めて風呂場から出た。いつもの九時半、昨日右へ向いた足はまっすぐ実子の部屋へ出る。わざと足音を立て白い扉をノックすると内側から鍵をあけられた。遠慮なく立ち入りベッドの上の落ち着きはらったパジャマに並ぶ。
「お話ししに来ました」
「まさかオセロやりにきたなんて思ってないよ」
そっけなくやわらかい声が記憶をひっかけた。小さい頃ボードゲームに負けると泣いたわたし。をなだめた実子。生まれた瞬間からそういう星の巡り合わせだったのだ。
「お姉ちゃんの聞きたいことはわかる。あんなの全部嘘。困らせたかっただけ」
実子は右手でロングヘアーをすき脚を組む。胡散臭そうに嬉しそうに語り化粧水を手に取った。
「誰を?」
「お姉ちゃんがいまここにいる、んだからそういうことじゃないかな」
ぼうぜんとしているおでこに冷たいコットンが当てられる。次の句をさがしているうちに世界が回転した。
「女子高生がこんなの着ちゃって。期待してるんでしょ、毎度まいど単純だね」
羞恥と苛立ちで顔がかっと火照る。だけど反論はできなくて、せいぜいまぶたを伏せるくらい。実子は押さえていたわたしの両手首をハンカチで縛りそれをベッドに結び付けた。実の姉に平然とこんなことができる中学生なんてきっとそうそういない。自分にぜんぶはねかえってくるセリフ。
「もう止めよう」
死の宣告は容赦なく降り注いだ。
「今日で最後」
実子は惜しむ様子を一瞬たりとも見せず仰向けに天井を眺めるわたしの鎖骨に口付ける
「寂しくなるよ」
「あたしはならない」
温度差なんてとっくの昔から知ってた。
広い家と言えどいつ誰が部屋の前を通るかわからないからどんなに汗ばんでもヒーターは消せない。声に被せるために。
脳天から爪先までを痺れが貫いていく。実子を、なにかを抱き締めたい。自由を奪われた手はわたしにむやみな焦燥を与えた。
「あたしは別に逞しくないの」
「え……っあ、痛い!」
「お姉ちゃんが脆いだけ。乗っかられても迷惑だから」
腕の中で必死に泣いていた妹はいまわたしのすべてを手中におさめている。必要ないのに手綱もあった。こちらのほうが依存心はつよい。
「やだ痛いって、ねえ」
鋭くも芯が定まらない激痛に涙が滲む。そのとき感じていたのはたぶん破瓜の痛みってやつなのだろうと後々我に返って肝を冷やした。
実子の指はとうとう奥の奥の入り口で蠢いている。もはや気持ちいいのかさえわからなくなって、とりあえず、流れ続ける涙のそのままにしておこう。
妹に男ができた。
「本当のひとを大事にしてね」と実子は息を吹き掛けるかのように耳元で囁き、二年にわたる情事に終止符を打った。「ばいばいお姉ちゃん」
はじめて実子によりかかったのはイイナズケから一通の手紙が来た日。夏だった。シーツが汗まみれになった。喉が渇いて足が痛かった。快感なんて知らないまま預けていた。手紙の内容は忘れた。
あの日は過去になったけど実子はこれからもずっととなりにいる。呼吸困難におちいりそうなほどの目眩と不安定さをわたしに与えつづけることだろう。
「おはよう」
変わらないものの水面下に隠れていろんなことが変革を遂げる。
「おはよっ」
例によって非の打ち所がない笑顔で振り向くと、長かった髪をばっさりとショートにした和希がいた。しばらくまじまじと観察して一言。
「……イメチェン」
「失敗だったかな」
「ううん可愛い!」
嘘や建前に無縁なのは恐ろしいか崇高すぎる。本音に無縁なのはその百倍。
錯覚が、過去にはあった。わたしの愛は実子に向かっているって。心地良い幻想にだけ浸って生きていればそりゃあ楽だ。
「っていうかかっこいい。路線変更?」
他人に背負わせていた荷が戻ってきて。
「まあね」
案外辛くなくて、だけど悲しみも確かにあって。
「あ、もしかして好きなひとでもできちゃった?」
一回りして怖いものが減ったかんじ。
「今頃きづいたんだ?」
吹き始めた風の指す景色は全く見えなかった。
相変わらず空はむなしく晴れ渡っている。コントラスト激しく滞る感傷はわたしの背中を微かに押した。
「妹に彼氏ができたの」
「そうなんだ」
「わたしあの子と時々セックスしてた」
和希は目を見開いてそれから混乱の色を浮かべ、おずおずと口を開く。
「あの子って……まさか妹の方?」
和希がNOを欲しがっているのは明白だったけど、この場面でYESしかないのもまた明白だった。
「うん、妹と」
わたしはあえて音にする。どっかへ飛んでいけばいいと思いながら、名残を惜しみながら。
「軽蔑する?」
「しないよ。軽蔑なんてしないけど」
恒常をのせる電車が非常事態へ飛び込んでくきた。めくるめく感情の波が目の前の少女を真上から襲っている。
「どうしてそれをいま私に教える?」
「どうしてでしょうね」
沈黙が、なのに騒がしい。矛盾は偉大だ。和希が唾を飲む音。
「聞かなくてもわかるよね」
右手から滑り落としたバックをすぐさま持ち上げ、わたしの手を取り和希は小走りで車内に入る。中野駅につくまでずっと手もとが熱かった。ついてからもずっと熱かった。お互い窓の外ばかり眺めていたけど十分ほど経って目線を上にずらすと、赤面した和希がせつなげに光る眼を潤ませて指先の力が大きくなってわたしは、うまれてはじめてだれかとみつめあう快さを知る。
[09/10/22]
前
□
次