The First Cry


 莉沙が倒れた。らしい。あたしは授業をヌケて、健康診断の結果を受け取る以外に入ったことのない保健室へ走る。


 幸いなことに養護教諭は不在だった。消毒臭が漂う小部屋を革靴で出せる最大の速度で進む。ベッドは二つあって両方とも使用中の札が下がっていたけど、あたしにはどちらに莉沙が寝ているかわかった。心配でちょっとの間でも惜しいのが六割、悪戯心が三割、下心一割で声も掛けずにカーテンを開け放つ。
 莉沙はびくんとタオルケットの下の体を震わせ目を見開いた。それから眉間を寄せたのは、眼鏡を外して視界がぼやけているからだろう。
「愛莉」
 穏やかな声音で静かに驚きを告げる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないじゃんっ。莉沙が意識不明んなって運ばれたって聞いたから」
「意識不明って……おおげさな」
 莉沙はあまり自分から喋らない。あたしが口数多いからバランスは取れているのかもしれないけど、たまに焦れったくなる。今とか。
「一体どうしたの?」
「熱中症みたい」
「みたいって。体育? 外でやってたの?」
「ううん、仮設で」
 仮設というのは仮設体育館のことで、仮設体育館というのは風通しが究極に悪く夏場はとにかく温度湿度がこもるこもる。Tシャツは汗で貼りつきタオルが水分を吸収せずイライラは募り。残暑で久々に真夏日だった今日、病人が出ても不思議じゃないしむしろ当然といえた。
 でも。それがよりによって莉沙だなんて。意識をなくすほど重症なんて。
「どうせまた、大丈夫?って聞かれてもうん平気〜って笑ってたんでしょ。きついときは早めに言わないとダメじゃん。わがままと自己主張は別なんだよ」
「ん、そうだね」
 曖昧な笑みがこの人は得意だ。あたしがくどくどと吐き出したこと全部をのみ込んで受け止めて、たったひとことをその見返りに仕立て上げてしまう。
「授業、いいの?」
 不意に黒目が問いかけに染まった。ただいま四限目、あたしの授業は倫理。あまりよくない。よくないけど。
「授業より莉沙が心配なの」
 直載に伝えると莉沙は黒いロングヘアーを指ですきつつ持ち前のひとのよさを表情に出す。出る、という表現が本当は適切な。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「でも、戻ったほうがいいよ。私は全然問題ないから」
 目を細め口角をあげて。こんな場面でも特技を披露する姿に涙が出そうだった。
「いいよ」
「なにが?」
「あたしにまで気遣わないでいい。わがまま言ってよ。ここにいてって言いなよ。授業なんかどうにでもなるもん。莉沙に遠慮されるより駄々こねられるほうがずっと幸せなんだからねあたしは」
 いっきに捲し立てると、莉沙はちょっとポカンとしてる。ほんの数秒間をおいて返事があった。
「愛莉、しばらくとなりにいてくれる?」
 やっぱり柔らかい顔で仰向けに寝転がったままあたしのベストを小さく握る。これじゃどっちが駄々っ子かわからない。なんてことはなく、明らかにあたしのほうである。
「しょうがないな。町岡さんはお人好しなので聞いてあげましょう」
「わあ、嬉しい」
 お人好しの権化みたいなひとがにこにことよこたわっていた。あたしは莉沙の腰の辺りに座り、いつものひとつ結びから下ろされたふわふわの髪を眺める。
 とたんに訪れた沈黙。あたしが口を開いていないとこうなるのだ。話題を探そうと首を捻って、でもこの高尚な静けさとあたたかい空気を凌ぐ話なんてそうかんたんに見つかりっこない。
「愛莉」
「ん?」
「好きな人、本当にいないの?」
 一瞬びっくりしすぎて身体が硬直した。莉沙がこの手の話を自分からするなんて。つまり。
「莉沙、好きな人できたの!?」
「声大きいっ」
 隔離された保健室で誰の耳を気にしているのかわからないけど(隣のベッド?)顔を赤らめてうろたえる莉沙はかわいい。その慌てっぷりが真実を物語っていた。
「だれだれだれどこのだれ?」
「や、それは……」
「いいじゃん教えてよ。莉沙の秘密なら誰に言ったりしないよ絶対」
「うん」伏し目がちに呟く。「でも、今はまだ。もうちょっと待ってて」
 枕に顔を伏せながらそんなことを言われたら、うんわかったと従わざるを得ない。いまの私たちはどこまで行ったら変わるんだろう。変革の合図は小さな産声をもってすぐそこまで来ている気もした。
「恋かあ……ずっとしてないな、あたし」
「そうなんだ」
「中二で失恋してそれ以来なんもないよ。JKとしてどうなんだろう」
 自嘲気味に頭をかく。莉沙は切なさと優しさのこもった瞳であたしをじっと見据えてくれた。
「どんな恋だったの?」
 三年前。たいしたことじゃない、好きになって告白して付き合ってフラれた、よくあるパターン。とっくに思い出になったはずなのに、莉沙に掬い上げられるとあの頃の熱っぽさがよみがえって頭に溢れる。
「聞いてくれる? あたしが話し出すと長いよ」
「知ってる」
 ぷつりとなにかが切れてあたしの口を動かし始めた。的確な相槌と同調が入ってくるから楽である。ちゃちなパイプの白いベッドはガールズトークの大舞台へ。眩しい日差しを避け適度にクーラーの効いた部屋で、あたしはほんのわずか寂しさを胸に語り出した。莉沙がたった一度しか言わなかった「ありがとう」の誠実な重みを、全身にひしひしと感じながら。


[09/09/02]
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