全力逃走


 ひとくち食べれば蜜の味。ふた口かじりゃ中毒に。三口目からは病だれ。くだらない誘いだとわからなかったわけじゃないし乗らないほうが身のためだとも知ってたし。「だけど」逆接はこの世に存在する。たしかにだ。
 ただいま13回目の挑戦中。
「……あっ」
「もう! いつまでかかるのよ」
 私はいつまでこいつの怒号を聞かにゃいかんのか。悪いことのひとつやふたつしたと言うならまだしも、思い付きで人を左右するのは止めてほしい。
「おまえこそいつまで粘るわけ」
 ため息とともに吐き出すと、帰ってきたのはみじかいリアル。
「ヘタレ」
 うちの学校の寮は窓がでかい。別にだからどうと言うこともないけど、と以前は思っていた。今、わりと都合が悪い。人目を憚るべき時間が増やされたから。受け身で語りたい心情を察してくれ。
「だいたい体にも悪いじゃない。どれだけ消化させる気よ」
「自分からはじめといてその言いぐさはどうなんだ……」
 かつてあった部屋を分かつカーテンはとっくの昔に外された。踏み込んでもOK?と聞かれると実はそうでもないんだけど。互いの生理周期は知ってても、家庭の話をしたことはない。中学時代の話もあまり。
 手が触れる。指が、私の肘に向かって伸ばされた。思わず脇を締めると目の前でオレンジが咲く。
「かわいい」
 人を弄ぶことにかけては天賦の才を持っていると思う。度胸はあるし大胆だし……男前なのだ。悔しいくらい私の理想である。あれ、ってことは私はどういう趣味してるんだろう。自己愛? まさか。
 迷いのない指先は肘周辺をこまめに撫ぜまわしている。くすっぐたい。なんていったら思う壺。必死で平静を装って、ああ本当に、いつの間にこの位置を取って代わられたのか。
「さて、ネクスト・チャレンジ、いきましょうか」
「まじで?」
 取って代わられたもなにも最初から勝ち目がなかったこと。そういう星のもとに生まれてきたんだと思い込むこと。だけど、たまに考える。この力関係が引力がなかったら、私たちはこうしていなかったかもしれない。
 瞳が近づく14回目。身長がぴったり一緒だから、私は座るとき背筋を伸ばす。少しだけ上の目線からまつげを見るのが好き。伏目がちが好き。融和されてくこの時間と空間を、晴れ上がった空が鷹揚に仰いでくれる。
「はい」とそれが手渡された。「ふぁいと」
「……!」
 どう聞いても平仮名。たまにかわいいことをする。計算じゃないそれはまっすぐと、まっすぐと私を倒していく。
 うすく染み渡った微笑で私の顎に手を添えた。この瞬間のためになんども失敗させてきたのだと言ったら、どう切り返してくるのだろう。唾をのみ、空になっていくポッキーの容器を眺めながら私はちがうところに噛り付く。


[09/07/07]
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