Hello Softly


 また擦れ違いぎわに睨まれた。
 なんて不毛な制度。廊下で先輩に遭ったラクロス部の女子は、はきはき「こんにちは」の挨拶・恭しい一礼とともに、彼女が通り過ぎるまでその場に立ち尽くさなければいけない。たとえ授業に遅れそうでも、教師の怒号がぶつかろうとも。中学校なんて理不尽の権化みたいなものだけど、こうもすごいのは希少レべル高いと思う。思うから、あたしは視線すら当てない。くだらない無駄を考え出した人間に、頭なんて下げてやるものか。
 そもそも自分の希望で入ったんじゃないのだ。部活は強制参加だし親にたしなめられ友達に引きずられ、最終的には当時の部長の「うちは大会も出ないし、超ゆるいよん」というやわい一言が決定打となった。体育会系とは程遠い雰囲気に惹かれたわけだけど、今となってはおとなしく美術部や広報部にでも入っておけばと後悔する始末(やること少なさそうだからってだけで、あたしに文化系センスはゼロ)。部活を変えるには、とりあえず来年度を待つ必要がある。
 九月までは、紙飛行機をはじめ愛すべき稚拙が飛び交う時間だった。やっすい悲劇の幕開け : 政権交代。とたん年功序列、指導と託けた二年の憂さ晴らし、意味不明なルールの施行といった有り様。みんな帰り道では散々罵りながらもカシコク従っている。居心地わるいもんね、狭い小部屋で異端の席は。座ってるのはあたしだけ。おかげで放課後の風当たりはキツいけど、頓着せず接してくれる先輩もなかにはいる。しかし生憎、そのふたりは幽霊部員。
「音楽室のラジカセ借りてきて」
「なんでラクロスにラジカセがいるんですか」
「うっせーな、黙って借りてこいよ」
 まわりの部員から笑いが漏れた。くすくすなんてかわいいものじゃなく、下品極まりない。男ってバカだな、騙されるんだから。
 音楽室は南校舎の最上階にある。もしかすると、持っていったらすぐ返してこいと言われるのかもしれない。
 踊り場で別の先輩が男子に媚びを売っていた。無言のあたしに気づくやいなや舌打ちをしたけど、次の瞬間には計算され尽くした周到な愚劣。繰り返す、男ってバカだ。もはや褒め言葉としての。
 足取り重く中廊下をわたっていると、目的地からきれいで軽妙な旋律が飛んできた。ちょっとの間聴けば、誰が弾いてるか知れる。合唱祭定番のピアノ、繊細で、かつ深熱的な。いちど耳にしたら忘れまい音。秋先輩だ。
 すりガラスの向こう側、早苗先輩も一緒にいるはずである。そろそろ部活出てくださいよって言ってみようか。あのふたりがいると、普段伸びきっている空気も巧く和んだ。いつも苦い顔であたしをパシリに使う先輩たちでさえ、終始にこにこしている。嘘みたいに。
 扉の前まで来ると不意にメロディーが、ぷつり。中途半端なところなのにと訝り扉を開いた。窓からの鋭い黄昏は、眼を眩ませそう。シルエットだけだったふたりの姿が徐々に色を帯びて。じわじわじわ。その清景に息をのむあたし。
 グランドピアノ用の黒い椅子に腰掛けるジャージ姿の秋先輩と、その横に立ち、微か上体を傾けキスを捧げる、めずらしく制服を着崩した早苗先輩。頬に睫毛の影を落とし、薄い、でも限りなく満足げな目尻。崩したんじゃなくて乱れたのかも。無粋な憶測は、それ以上の意味を持たない。
 ふたりが異物に気付き、鈍く火照った意識をこちらに向けた。頭の中リセット。考えるより先に、口が動いている。お辞儀を加え丁寧に。
「……こんにちは」

[10/01/20]
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