悲喜劇をはじめよう


 Live your life until love is found、とわたしは覚えたての英語を算数のプリントの余白に書きとめてから顔をあげた。おもちゃみたいなテーブルの向こう側で反比例に苦戦する凌に遠慮なくじっと視線を向ける。いつも二問のひらきがあった。でも私が教えてあげようとすると必ずムッとした顔になっていう。自分でできるから。
 グリーンでていねいに統一された凌の部屋は、あらゆる色彩やフォルムが繁雑にまじりあったわたしのそれとは正反対だ。そして無機質。コルクボードを埋め尽くすような写真はどこにも見当たらない。
「おわった」
「さいごいくつになった?」
「1200メートル」
 わたしがはじき出した値とは300ばかり差があったけれど、指摘はしなかった。自分で作った会話の流れをぶったぎる。
「たいせつなおはなしがあります」
「……うん」と凌は眉を寄せ片手で頭をかかえた。「知ってる」
「ならてっとりばやいね」
 切り返せるほどの余裕がわたしにはあったらしい。それがなにに裏打ちされた自信によるものだったのか、いまも謎である。
「好きです」
 わたしは単刀直入に言った。小六の三学期だったあのとき、迫りくる卒業になぜか焦りを抱いていたから。中学校生活に夢見てならべたてた幾多のたらればの裏には、喪失の思いもおなじだけ潜んでいた。
「うん、知ってる」
「つきあってほしい」
「うん」
 知ってる、と凌はもう繰り返さない。水面下にあった思いが、ようやくわたしたちのまえにきちんと姿を現した。
「でも」と恐ろしい逆接が入る。「特にいままでと変わることもないよな」


 性愛と恋愛はべつのものだとおもう。わたしの場合たまたまその二つがほぼ同義であるだけで。
 好き、と思ったら触れずにはいられなかった。恋情と肉欲がイコールで結び付いたわたしのメカニズムは、ある人によればもっとも人間的でまたある人によれば極めて非人間的なのだそう。
「そんなことない変わるよ。変えてよ、わたしはそのために」
「告白した? どう変わってほしくてだよ」
「……もっとたくさんのことを見たいし聞きたいし知りたい。凌のために五感をぜんぶつかいたい」
 せっかく遠回しな表現を選んだのに、凌が「小難しい話はわかんねー」とひらきなおるのでわたしは必要のないことまであいだに挟み、12歳の知識でできる限り事細かに説明してあげることとなった。はじめ強気だった凌の面持ちはだんだんと崩れ、しまいには真っ赤になってわたしの口を塞ぐ。あまりにも可愛くて思わず笑ってしまった。
「照れすぎだよ、凌」
「だって!」
「うん、だって?」
「そんなこと無理。できない」
 パンドラの箱に唯一残ったという「hope」すなわち「希望」は、じつはなによりもやっかいなものではなかろうか。人はなぜ不可能とわかっていることにでも期待をかけられてしまうんだろう。総称は嫌いだけど、これだけは言える。
「なんでよ」
「なんでって……」
 凌は理由など述べるまでもないと言いたそうだった。かなしいけど、わたしは凌のそういうところを好きになったのだから仕方がない。
「早苗だってべつにそんなことしたくないだろ」
「ううん」
 え、と呟き凌は身構えるように腕を組んだ。露骨な反応に、こっちまで恥ずかしくなってしまう。
「でも凌がいやならいまは我慢する」
「いまは、なんだ」
「そりゃあね。注射の順番待ちしてる気でいれば」
 複雑そうに黙り込んだ凌をみて、わたしは触れるか触れないかくらいのキスをした。
 頬に。
 それなのに凌はうわあとすごい悲鳴を上げてあとずさる。
「そこまで拒否られると傷付くな」
「ごっ、ごめん。嫌なわけじゃなくて、ただびっくりして」
 それなら、とせがむと凌はとてもとてもぎこちない返礼をくれた。
「顔ちっちゃいね、羨ましい」
 レモンとかピーチとかよく言うけど、ファーストキスはちょっとまえに食べていたじゃがりこの味。ロマンのかけらもないコンソメ風味。
「歯、みがく?」
「今日はここまで」
 あしたからこのひとはどう生きてくれるだろうかと考えて、わたしはその日夢も見ずに眠った。


[09/01/23]
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