致死量までもうちょっと?
怒らないようにしよう、と最初は思っていた。こいつの変な行動はいまにはじまったことじゃない。いちいち相手にしていたら身がもたなくなる。必死で自分に言い聞かせてフェルマーの定理に意識を集中させて、おべんきょうが好きですかーと言われた瞬間なにかが切れた。
「男が嫌いだって泣いてませんでしたっけ? なにやってんだよバカが」
「凌ソレよく言うけど、バカって先に言ったほうが」
「バカでもなんでもいいわ! なにやってたのかを聞いてんだよ」
「それはだからいままで散々話したじゃない」
「……ああだめだ会話にならん」
チャットでオヤジを引っ掛けて、そいつの発言に笑っていたらしい。純情な女の子が好きそうだったからそう振る舞ってあげた、らしい。
それにしても、となにかを仕掛ける瞳で早苗は口角を上げる。
「人間の想像力はすさまじいね、バーチャルセックスなんてむなしいこと考えてさあ」
「……は?」
あらゆる方向から複雑に編み込まれた網は百発百中、単純な人間をものの見事に絡めとる。標的はもっぱらあたしだ。
「ほんと爆笑ものだよ、いきなりパンツ脱いでみようか?とか言ってくるの」
自分の相槌によけいな色がつくのがわかる。なにも考えたくなくて、すごいスピードで数学を終わらせてしまった。けど宿題はまだたっぷりある。
「うん、って返したらえらく興奮されたわ。こっちが恋人とのプリクラ切ってるとも知らずに」
フェルドマン大好き、貨幣経済万歳。これ以上早苗の声を中に入れたら壊れそうだった。なにかが。
「それから、オレのおっきくなっちゃったからなめてくれる?とか聞いてきて。頭おかしいわ、さすがにそれはって渋ったら急に赤ちゃん言葉になって気持ち悪いったら」
ああくそメロンの需要と供給マッチしろ。カルテル・トラスト・コンツェルンってドラクエの呪文みたいだ。いやちょっと違うか。ドラクエなんてやったことない。
「発言なくなったなと思ったら抜き終わったらしくて、またやろうねってしつこく誘ってくんの」
卸売業萌え。仏の顔も三度まで。
両手で机を叩きわざとらしくがたんと音を立てても、早苗はさらにわざとらしくびくともしなかった。
「なんのつもり?」
そのかわりどっち付かずで宙に浮いていたセリフを奪っていく。ああ腹立つ。でもここで切れたらまったくもって早苗の思惑通りだ。抑えろ自分。――かすかな冷静さも、むなしく消え去っていった。
「なんでそんなことしたんだよ!」
「そんなこと、って。なんでって」やっぱり早苗は嬉しそうに唇を舐める。「凌に言われる筋合いないと思うけど?」
頭の芯が、それから涙腺がじわじわと熱を帯びはじめる。知っているんだ自分は誰より、これがこいつの、こいつなりの愛情表現だってこと。あたしの苦しみがこいつには一種の喜びであることを。だけど。なのに。
筋合いがない?
「それじゃあさ」昔から、涙を堪えられない子供だった。「あたしは早苗のなんなんだよ……」
俯くあたしの頬に、ふっと息が吹き掛かる。歓喜と、やさしい哀れみに満ちた。
縺れた糸をほどこうと早苗が口を開いた。ことなきを得るのが望みであるはずなのに、あたしはそれに真っ向から抗ってしまう。
「つかれたよもう、お前に振り回されるのは」
「……え」
わかりやすく全身を強張らせる早苗は、たとえば。
「あたしだって傷付くただの人間なの、早苗のオモチャじゃなくて。止めてくれないんなら今後いっしょにいられる自信ない」
もしもあたしがいなくなったら、生きていけないんじゃないか。こたえがいともたやすくわかってしまうから、もう一度拳を打ち付けた。
そのあとはとにかく泣かれた。およそ一時間にわたって。
「ごめんなさい」
なにが、とは言わずに早苗はひたすら繰り返す。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
「間接でも、早苗がどっかの男にやられたら……嫌だ」
嫌、の一語ではとても表しきれない感情だけど、正確に伝えることはあたしの語彙が可能としなかった。母親に見放された赤ん坊みたいにあたしにすがりつく早苗の背中を撫でながら、とほうに暮れる。あたしの怒りはなかったことになってしまった。そうならざるを得なかった。
「ほんとにただの冗談だったもん。もうしないから、凌を弄ぶようなこと絶対しないから、だから」
背中に回された手に力が込められる。
昔から、器用な子供だった。早苗は大人たちへの対応に今も驚くほど長けている。誰もが認めるいわば優等生。その「しっかりしたお嬢さん」の曲がり気味な素顔は、残酷にも必要とされない。あたしはなぜか無意識にそれを欲した唯一の人間らしい。互いにそうと気付いて以来、あたしたちはとけあってきた。長いあいだ。
きれいに整った髪をすく。しゃくり上げながら、早苗はまじりけのない声で言った。
「きらいにならないで……」
一呼吸置いて、うん、と答える。ほかになんと返せただろう。
きっと早苗はこの先も、あたしのことを試すのだ。期待通りとことん踊らされてやろうと思う。いつか、あなたのもとに帰るまで。お望みとあらばそれからもずっと。
[09/01/03]
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