薄暮をすぎて
宇宙のむこうにあるものをおしえてください。
「なんか落としたわよ?」
紀沙はきれいに研がれた爪にそれを掴むと悠々とした仕草で顔の前に掲げてみせた。宇宙の、と読み上げ掛けたところでかのとの手が入る。彼女が気がつかなければ小さな紙片はあるいは駅の喧騒に紛れて二度と戻ってこなかったかもしれない。
「なにそれ、小学生時代の落書き?」
「いや」
まあねと適当に流してしまえばいいのだろうけど、生憎かのとはそんな器用さを持ち合わせていなかった。瞳に走った逡巡を、卒業式振りに再開した腐れ縁は見逃さない。へえ、と意味深げな声が返ってきた。
「梛子に関係あるものか」
「わかったんなら言うなよ」
騒がしい足音が一瞬だけ消えた、ような錯覚を起こす。年末の忙しない空気は嫌いだ。人混みも、中学時代の知り合いに偶然遭遇するのも、自分の弱味を握られるのも。ただでさえかのとのフラストレーションは9か月間溜まりっぱなしである。
「聞きたい? 梛子の近況」
「いいや結構」
武蔵野線はよく遅れる。どうやら今日もそうらしく、恭しいナレーションが構内に響いた。携帯電話の画面で時間をやり過ごす。短いスカートから白い脚を出した姿があちこちに見受けられて、自分が記号に成り下がり多数の中に埋没していることを思い知った。
「部活の先輩と付き合ってるみたいよ」
「……誰がだろーな。答えんでいいけど」
ああ気分が悪い、とかのとは眉を寄せた。紙切れに滑った鉛筆を持っていた梛子の、柔らかい手。夢が覚めるという当たり前をまだ受け入れられていない。不意に紀沙が隣で呟いた。まさか。すぐに二の句が継がれるかと思いきやしばらく沈黙がある。
「まさか、お守り代わりなんかじゃないわよね?」
「うっさい」
そのひとことで紀沙は事を理解したようだった。同時に心底驚き、呆れている。いいんだ別に。かのとがひとりごちた。ベンチの足元にはジュースの空き缶やら煙草の吸い殻やらが散乱している。かのとも梛子も、素朴な疑問を厭わなかった日々はとっくに通りすぎた。もう繰り返されない。
「捨てなよ」紀沙が線路を指差した。「伝えてあげるから、梛子に。かのともいま男の子と付き合ってるって。だから梛子とまた友達になりたいみたいよって」
「なに必死になってんの? 他人のことで」
冷たくあしらうと紀沙はすっくと立ち上がる。私駅ビル寄って帰るわ。そこでようやく慌て始めた。もっとも無駄でしかなかったけど。謝ろうと声を掛けたものの、ホームに入ってきた列車の轟音に掻き消される。かのとは階段の方に全力疾走し、紀沙のコートを引っ張るとその場で紙を握りしめていた手を開いてみせた。
「これでいいんだろ」
「……あ」
強風がふたりの髪を激しく靡かせる。紀沙はさっと背を向け速足で階段を駆け上っていった。唐突な展開に戸惑ったのかスカートを鞄で隠すのを忘れている。見たくもないものを見てしまった。背後でなった発車ブザーに急き立てられ、今年最後になるであろう駆け込み乗車をする。
『宇宙ってどこにあるかわかんないんだよね? ならここがどこかもみんな知らないんじゃない?』
『梛子ちゃんの話、むずかしい』
わからないと言うのはプライドが許さなかった。ドアに寄りかかって、ピンク色のそれを再び開く。さっきすれすれのところで小指に挟まらせたのだ。拙い文字はかのとに虚しい微笑みを与えてくれる。いつでも、どこにいても。梛子の部活は男女混合なのだろうか。男にとられたなんて、悔しい。
『ここはここ。あたしのとなりだよ。それじゃだめなの?』
『……そっかあ。うん、ずっと友達でいようね』
女にとられたならもっと悔しい。そもそも梛子が自分のものなんかじゃないことがなにより悔しく、悲しい。かのとはあのとき天にも昇る気持ちだった。ずっとって、言ってくれたから。「ずっと」が続く限り自分は幸せだと思って、それは実現した。けど、終わりも予想外の早さで訪れた。
『ケッコンしたらきんじょに住もうね』
『うん!』
まもなく16になるかのとは思う。よく考えてみれば、自分の望みは10年前の最初から切られていたのだと。無邪気に喜んでいたなんて。涙する気力はとうに使い果たした。胸の痛みだけが着実に、静かに重くなっていく。ねえ梛子、あなたの謎の空間がどうであろうとなにも変わらないよ。
『わたしの知りたいこと、書いてあげる。いつか教えてくれるまでなくさないでね』
突如頭に蘇った言葉が目眩を引き起こした。帰りに梛子の家に寄ってやろうか。コレを突き付けて、あたしに難題押し付けんなバカ、先輩とお幸せに、と。それは存外いいアイデアに見えたけど、無論実行に移されることはない。永久に。窓の向こうには冬の星達が煌めいていた。それらを結び星座を描く術を、かのとは知らない。
[08/12/13]
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