ありふれてゆく日々を抱いて


 彫刻刀を滑らせた痛みに思わず上げた声は、目の前からのくしゃみにかき消された。暫しの間を与え、反応のないことを確かめてから腰を上げる。先生から絆創膏を受け取って席に戻った。
「あれ?」とやっと私の指先を見る。「山岸さん怪我したの?」
「うん。やっちゃった」
 つぐみちゃんは続けてなにかいいかけたようだったけどそれはまたもやくしゃみに遮られた。大丈夫、と聞くと小刻みに首を振る。隣から里崎が口を挟んだ。
「自業自得」
「どういうこと?」
「昨日風呂場から部屋直行して服も着ずに寝てんのこいつ」
 まるで見てきたような口ぶりにそれが「まるで」でも「ような」でもないことを知る。「風呂場」を出てから「寝」てしまうまでの間に起こったであろう一連の出来事を思い浮かべると、複雑な気分を通り越して感心の域に至った。
 へえ、そうなんだ。ひきつる私の言葉はチャイムの中へすっと消えていく。


 ふと顔を上げると、つぐみがまじまじとあたしを見ていた。耳が熱くなるのを感じながらなんだよと問う。言葉遣いが荒くなったのは、照れ隠しとして多用してきたせいでもあった。
「まさかひなたがあんなふうに言うなんて思ってなかった」
「は?」身に覚えがない。「なんの話?」
「山岸さん、完全に誤解してたよ。わたしたちが一夜をともにしたって」
 時代錯誤な言い回しに突っ込んでいる暇はなかった。数時間前の自分の発言が脳裏を鮮やかに駆け巡っていく。あのとき生まれた不自然な間の正体がようやくわかった。
「……やべ、気付いてなかった」
「え、なに、天然だったの?」
 肯定を示すとつぐみはそれはもう楽しそうに笑う。満面の笑みをよそにあたしは途方に暮れた。今さら訂正して信じてくれるわけがない。あれは全部今朝つぐみのお母さんから聞いた話だ、なんて。
「どうしよう……」
「わたしは構わないけどな。ひなたはそういう誤解されるのが嫌?」
 つぐみがきっぱりと言い切った瞬間、あたしの思考はストップしていた。
「そんなこと、ない」
 でしょ、とつぐみは満足そうに人差し指を立てる。辺りがまぶしくて仕方なかった。
「いつまでも」
 幸福を、幸福以外のどんな名で呼べるだろうか。
「片思いのままだとおもわないでよ」


[08/12/01]
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