味見の危険


 普通の学校ではまず聞くことのない、重々しく宗教がかったチャイムが鳴った。3限終了、つまり残るノルマは3時間20分。はあ、と大きくため息をついて足を胡坐に組みかえると、和やかなのに鋭い声が飛んでくる。
「おんなのこがそんなはしたない体勢あかんよ、仲村さん」
「そうは言うても疲れるもん、ずっと同じ姿勢じゃ」
 うちの学校のシスターの一人、且つ今回のあたしの監視員(名前は知らない)は眉を顰めて続けた。曰くこの通称「鳥籠制度」は、ご法度を犯した生徒を「閉じ込め1日自由を奪う」ことよりも、その生徒の「囚人っぷりを観察する」ことにハイライトがあるらしい。え、あたしがなにをしでかしたかって? 笑っちゃうよ。――届出を忘れ、午後8時に外食した。それだけ。ここみたいな閉鎖空間では周りが見えなくなる。したがって常識も善悪の基準も大幅にずれる。筋金入りのお嬢様学校に、中等部から親の無理を呑んで入学したあたしはまだなかなかついていけない。主食はスミレと檸檬とお砂糖ですみたいな同級生たちにも。
「つーかなんなんこれ……いくら変な学校言うても檻はさすがに日本唯一と違う?」
「変な学校とか言わんとき。うるさい先生がたに聞かれたらさらに面倒になる」
 目の前に何本も並ぶ黒い鉄の棒の向こうがわで、呆れたように彼女は呟いた。
「檻については一応諸説あるけど、仲村さんに話してもな。聖書の時間は寝てるクチと見た」
 透き通るようにきれいな風貌。そこはかとなく少年のような雰囲気にただのお堅いやつじゃないなとは思っていたけど、予想以上に話の分かるひとみたいだ。見渡せばどこも灰色、ぬるい地下の空気、そしてなによりはてしない暇。現実逃避のようにあたしは嬉しくなって頬を緩ませた。
「ねえ、あんた」
「あんた呼ばわりかあ」
「シスター」と柔らかな笑顔の裏に隠された黒に気づいて訂正する。「いまいくつなん?」
 これはあたしが彼女を目にしたとき真っ先に浮かんだ疑問である。上でも述べたように中性的で、そしてとにかく細くてぱっと見は若い子のようなのだけど、とても10や20とは思えない落ち着きや穏やかさもたたえている珍しいシスター。とてもとてもストイックな信者とは思えない自由奔放さ。聖母マリアの処女懐胎なんか、娯楽として半笑いで読んじゃいそう。以上、あたしのかってな見解。
「27」
「……へえ」
 すとん、と腑に落ちた。たぶん彼女がいくつといっても、「彼女が言った」年齢なら19でも44でも納得できたのだろう。彼女は退屈そうに欠伸をする。ひとにはしたないなんて説教しておきながら。
「彼氏は?」
「いない。おったとしても学校では言わんて」
「あーそっか。シスターは純潔、だっけ」
「ま、私の場合職業柄でもないけど。いいカモフラやわ」
 え?と思って目で聞き返すと。彼女はこちらに歩み寄り、しゃがんであたしと目線の高さを合わせた。柵越しにある胸元の十字架に、ささやかな小窓からの光がちかちかと反射されている。
「男に興味ないんよ、私」
 その言葉に反応する暇もなく、ゾクッと背中に悪寒が走った。なんでこのひと、生徒にこんなほんまの話してるん?
「……ふうん、そうなんだ」
 きゅうに彼女に見下されてる気がして、あたしはそんな発言に動じません、って虚勢張った返事をする。目だけで笑った彼女の瞳は、そんなの見透かしているようだったけど。
「ふふ、かわいいね仲村さん。緊張しちゃってるくせになあ」
「やかましいわ。誰が緊張してるって?」
「15歳らしくて非常によろしい。ちなみに当方純潔ではございません」
 不意に訪れた冷や汗に抗うべく「あっそ」と返したその声は、ぎい、という軋んだ音にかき消された。ゆっくりと狭い空間に響く、ドアの立てる摩擦。こっちからは簡単に開くのよ、とやさしく笑う彼女。怖い、逃げたい。
 座ったまま後退りして、檻の隅に逃げた。構わず丁寧な足取りで彼女は侵入してくる。こつ、こつ、と足音が響いてもう少しで至近距離!になった瞬間三角座りで顔を伏せつつあたしが取ったのは、祈りの姿。
「……な、仲村さん……おもしろすぎ」
 前を見なくてもわかる。あたしの前で膝を突き腹を抱え彼女は大笑いした。あたしの緊張も少しだけほぐれる。組んだ手を解きそうっと顔を上げると、無邪気な子供のようにわらう彼女がいた。
「突然生徒に手え出したりせんよ」
「なら、なんのために」
「いやあ、なんか近くで顔、見たくなって」
 飄々と歯が浮くような言葉を口にする。拙い口調でも、やっぱりその余裕はおとなのそれだ。あたしみたいなこどもじゃ、敵いっこない。
「ここ座らせて」
 了解する前にとなりに腰を下ろされた。文句を言っても無駄だと判断し、ただただ肩を落とす。なにしてんのあたし。
「疲れた顔。若いのに」
「はは。だれのせいだか」
 ほんとうに、なんなんだろうこのひとは。つかみ所がまるでない。ただ気分で動いているだけのようにも、なにか明確な意図があるようにも感じる。わかることはひとつだけ。あたしとはあらゆる軸が違っている。
 そう、いままで形を結ばなかった思いを意識したとき、あたしのなかにあらたな感情が生まれた。
 悔しい。
「シスター」
「はあい?」
 口を開かなければ、ってまさにこのこと。女神の微笑みさながら彼女は私を振り向いた。その表情におもわず唾を飲む。あ、いまのも見られたな、と思ったけど、もうそんなことはどうでもよかった。
「名前、なんていうん?」
「うえの? したの?」
 あたしはちょっと逡巡してから、「したの」と答えた。
「エリ。絵画に里」
「なーんだ、普通の名前」
「あたりまえやんか。でもどしたん? いきなり」
 くやしいから、なんて。歯が立たないことが悔しくてあなたを、振り回せるくらい虜にしてやようと目論んでるから、なんて口が裂けても言えやしない。べつにい、とごまかしてあたしは話題の変更を図った。
「ところで、キリスト教じゃ同性愛って禁忌じゃなかったっけ?」
「んー、それとこれとは、べつ。なんかうまく言えんのだけども……別に神様一辺倒でもビアン崇拝者でもないし。どっちも私っていうかねえ」
 色であらわすなら、たぶん海のあお。どの「あお」がいいかわからないからひらがな。動物に喩えるなら、鳥か猫。うなずきながらもあたしは早速わからなくなっている。いいんだ、このふわふわ浮いている人を、あたしの中に全部全部進入させてやるんだから。 
「ねえこっち向いて、仲村さん」
「なに?」
「ほー。やっぱしかわええ」
 どこがよこんな特徴無し、と口先で反論すると、彼女――絵里さんはあたしの髪を一束指にとって何を言うこともなく弄り続けた。無言で、何分も何分も。あたしはずうっと絵里さんの白くて細い首を見ていた。見ていたら、性欲とは違うけどキスしたくなった。なんでかって、あまりにもきれいだったから。美しいもの、かわいいものは触れたいし愛でたい、それが人間ではないか。あたしにはとても長く、絵里さんにとってはきっとあっという間だったであろう時間。
 またチャイムが鳴った。それにしても地下までよく響いてくる。絵里さんはようやく立ち上がって、昼食を運ぶために一旦地下室から出て行った。黒いシスター服が、ぼんやりとした明かりの中に溶けていく。ノルマ、残り2時間半。いまのあたしにはもう短すぎた。


[09/03/06]
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