Mary on the Shoji
階下から合唱部の歌声が聞こえ我に返った。あわてて周りを見回し人影が見当たらないことに安堵する。黒板の上の掛け時計に視線を移し、この教室に来てからもう40分が経っていることを知った。
「ちょっと、えーちゃん……」
上擦った声。マリはもぞもぞと体を動かし宙に浮いたままの私の指に触れる。手を休めるなと言いたいらしい。
「マリ」
私はたしなめるようにその名を呼んでマリの力を制した。
「やっぱり教室はまずいよ。家に帰ってからにしよう」
「やだ!」と即答される。「家まで我慢しろっていうの?」
「それはそうだけど」
「あたしいま立つことだってできないよ」
閉口させられたマリの言葉は、だけどあながち嘘でもなさそうだった。その責任の一端は自分にもあるから、困る。とりあえず制服着直して、と手で示してもう一度廊下をチェックした。
話は今朝に遡る。
誕生日おめでとう、とテンプレートな挨拶でマリにプレゼントの置時計を渡すと、礼よりも先に腕を引かれた。マリはトイレの個室に二人で入るなんて小学生みたいなことをして、私の目を正面からしっかりと見据える。そして「笑わないでね」という日本一無茶な前置きのあとこう言い放った。
「あたし15の誕生日までに処女すてるのが目標だったの。目標なの」
もちろん笑わずにはいられない。大笑いというのではなく腹の底からじわじわとこみ上げてくる笑いをかみ殺すのに全神経を傾けた。
「真面目にいってるんですけど」
「ご、ごめん」
そう言われても可笑しさは消し去れない。マリはため息をひとつついてから「ここからが本題」と人差し指を立てた。
「残念ながら彼氏は振りました。本当に好きな人が誰だか気づいてしまったからです。そんなわけでえーちゃん、オトモダチの目標にどうか協力してください」
早口、すらすら、流暢に。加えてポーカーフェイスを気取ってもいたけどマリの細い体は小刻みに震え、両手はきつく握られている。
「……そういうことだったんだ」
肯定とも否定ともつかない、いやどちらとも取れる私の言葉に、マリは更に肩を震わせた。
それからの経緯は説明せずとも差し支えあるまい。ちなみに私は意地悪にもイエスオアノーを放課後まで伸ばした。
思春期真っ盛りな中学生の一時的な衝動といわれてしまえばそこで終わり。でも私たちは至って必死だった。
「ねぇえーちゃん、ほんとに帰るの?」
火照った顔をしたマリが上目遣いに尋ねてくる。そんな表情を見せられたらうんと答えるべきこの場面を乗り越えられそうにない。
「だって誰かに見られるかもしれないよ」
懸命に喉を絞って出した自分の声のなんと弁解じみていることか。マリはあいかわらず床にぺたりと座り込んだままか細い声で訴えかけた。
「あたしが今この状況で出て行ってもばれるよ?」
あ、と呟きが漏れる。上気した頬に焦点の定まらない瞳。ぼんやりふわふわと浮いているように見えて、懸命に強い力を押し返すマリの中枢。これじゃあ誰の目にも「そういうこと」だって一目瞭然だ。
私はかわるがわる浮かぶ選択肢に目を眩ませる。
急がば回れ、もしくは、善は急げ。
結局私が選んだのは後者だった。据え膳食わぬはナントカと言うし(女だけど)。
でもマリが夢を叶えられたのかどうか、そして処女喪失の定義はよくわからない。わからないので、本人が満足ならそれでいいと思うことにした。
「ありがとうね、えーちゃん」
廊下を歩きながらマリが笑う。実はずっとマリの唇に塗られた色つきリップが中途半端に落ちている――というか私が落としてしまった――ことが気になっているのだけど、気恥ずかしくって指摘できなかった。
「ま、誕生日だしサービスね」
「えへへ」
まったく、一日中怯えて私の機嫌を窺っていたのはどこの誰だっただろう。マリは幸せだと叫ばんばかりにだらしなく口元を緩めている。その満ち満ちた様子に再び私の悪戯心が働いた。
「もうこういうことはしないよ」
瞬間、マリが表情を変えずに凍りつく。瞬きの頻度が上がる。「え」と懇願するように私を見た。その目に映る自分は得意げにワイシャツの袖を捲っている。
「――公の場ですることじゃない。こんどは家でね」
熱湯をかけられた氷のように、マリは「うん!」といい返事をくれた。
正直高をくくっていた。部活を引退した三年生が放課後教室に戻って来るなんてことはないだろうと。確かに誰も戻っては来なかった。だけど。
「詠子、ちょっと話があるんだけど」
朝のHRの直後、クラスメイトのアスカたちに取り囲まれて血の気が引いた。彼女たちは口々に言う。覗くつもりも邪魔するつもりもなかった。ただ進路関係の用事で学校に居残っていただけ。マリがわがままを言ったのも見ていた。
いや、ばっちり覗いてるじゃん。そう突っ込む気力も失せかけたころ、最後の一球を放たれた。
「全然、悪いこととか思ってないよ。むしろ二人をその、全面的に見守っていこうと思ってます」
常に歯に衣着せぬ物言いのアスカがあろうことか柔らかい口調で、仕舞いには敬語で私に微笑み掛ける。なんだか引き返せぬ場所まで来てしまった気がして、それが一秒も経たないうちに確信に変わって、私はあたりに充満する好奇心たちにあいまいな笑みを向けてみた。
[08/08/13]
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