このまま時を止めて


 晴天が腹立たしかった。わかりやすいドラマよろしく雨でも降っていてくれたほうがよっぽど気が休まったのに。この重苦しい沈黙だって雨音があればまだ紛れたかもしれない。
 いつもは服が汚れるからと敬遠している駅前のベンチだけど、いまそんなことを考えている余裕はない。やけに速く見える秒針をひたすら目で追う。頭では腕時計なんて放り投げてしまいたい衝動に駆られているけど、いざ実行したところで何一つ変わらないことも嫌になるほど理解していた。
「なお」
 呼びかけるとなおは肩を震わせ繋がれた手の力を強めた。焦点の定まらなかった瞳に驚きとも恐怖ともつかないものが走るのを私はばっちり目撃してしまう。大きな後悔はしばしばこういう取るに足らない出来事による。
 私は重い気持ちで口を開いた。ところが声が出ない。瞬きと深呼吸を繰り返してから試みても喉が詰まる。どうしてなんでどうして。自分の潜在意識がそうさせているのか生理的現象なのか、どちらにしてもこんなに酷いことってあるだろうか。私は今この瞬間なお以外のすべてを、そして誰より何より自分自身を心底恨む。
「ちさと、ありがとう」
 なおの口が動く、声が滑る。やめてお願い言わないで。願いは受け止められずに消えていく。
「いままですっと」
 なおはこれまで聞いたことのない――あるいは私が気付いてあげられなかっただけなのだろうか――穏やかな声色で言うともなしに呟いた。なおと唯一触れ合っているてのひらが圧迫されていく。可能ならこの手を、この腕を切り落としてもいい、なおと離れたくない。
「いや」気付くと私は嗚咽を漏らしていた。「いやだよ、もう毎日会えないんなんて、そんなの耐えられるわけない」
 それでも行かないでと懇願することはできない。万事が自分の思い通りに運べると妄信するには私たちは時間を重ね過ぎてしまった。
 駅の出入り口が人群れを吐き出す。私もなおも身を強張らせた。緊張を解くのはなおが断然早い。この時差がなかったらきっと私はとうに泣き喚いてなおを困らせていたのだろう。
 なおはそれじゃあと立ち上がって私の頬に空いている方の手を当てたけど、私はそれを振り払った。人目なんて気にもならないけど本当に終了してしまうみたいで恐ろしかった。かわりになおの右手をいっしんに握り返す。微笑を崩さないなおの目は痛々しいほどに悲しげな私の祈りを映し出していた。
 電光掲示板に示された時刻は目と鼻の先。私はすぐにでもなおを解放してあげなきゃだめなのに、体の末端に込められる力はどんどん増していく。ほら、雨が降り出せばそれを口実に歩み出せるのに。
 なおが謝罪の言葉を口にしなかったのがせめてもの救い。さよならと告げられるだけの勇気が、私にはない。


 そういえば昨日は天気予報を気にかけなかった。自分の心がなににとらわれていたかがよくわかる。
 手を繋いだのがどちらからだったかもう忘れてしまった。ちさとは顔を歪めて宙を見つめている。家を出る前はこういう状況になったら最後なんだから笑ってくれと冗談めかして頼むつもりだったけど、よく考えるとその言葉はあまりに無神経だ。あたしはちさとに倣って押し黙るしかなかった。
「なお」
 先に沈黙を破ったのはちさとだった。傷だらけになったような、それでいて優しい声。そのときあたしの心を支配した正体不明の感情は申し訳なさだったのかもしれない。あたしは返事にかえてちさとの手を握った。ちさとは苦しそうに何か言いかけて目を見開く。相変わらず口をつぐんだまま怯えているちさとを見ていられなくなったあたしは慌てて切り出した。
「ちさと」
 出かかっている涙を懸命にこらえて声を出しながら、そんな真似ができている自分を少し嫌った。
「ありがとう、いままでずっと」
 言い切ってみると案外気は紛れた。と同時に後悔に襲われる。ちさとは弾かれたように叫んだ。
「いや。いやだよ、もう毎日会えないんなんて、そんなの耐えられるわけない」
 古びたベンチが軋む。あたしを刺すちさとの悲痛な目線にいたたまれなくなって瞼を閉じた。
 あたしは今までずっとちさとの器用さに救われてきた。生かされてきたと言い換えてもいい。でも、少し考えればわかることだった、それはちさとも一緒。誰だって外から支えてもらわなければ立っていられない。ちさとの支えとはあたしに自分を器用に見せることだったのだ。あたしもちさとも所詮ただの子供で、真の要領のよさを身に付けることはまだどうしたってできない。
 それでも、と思ってしまう。そうだあたしにしてくれた努力を、あと数分でいい、続けてほしかった。それがどれだけ残酷な望みであるかもあたしは知っているけど。
 駅から人の群れが出てきたのを見てあたしは立ち上がった。泣きそうなちさとに精一杯の笑顔でそれじゃあと声を掛ける。足は泣けるほど軽い。
 キスを拒まれたのは予想通りだった。無理強いはしないとも決めていた。だけどちさとの手の力強さは思いもよらなかった。触れているのはてのひらだけなのにあたしは全身どこも動かせない。駅へ向かわなければならない時刻が近づいているのに、あたしはちさとに手を放してくれと頼むことができなかった。
 あたしだって離れ離れになんてなりたくないんだ。でもちさとがいつもの余裕で笑って見送ってくれるなら。そんな甘い期待をしていた。砕け散ったあとのやり切れなさに昨日までのあたしは思い及ばなかったらしい。
 ごめんというひとことをやっとのことで押し留める。右手にかかる力は痛みを伴うまでになっていた。またいつかと口に出せる無邪気さが、いま強烈に恋しい。




[08/04/25]
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