嘔吐するキリン


 「キリンさん」と呼ばれていた。長い背丈に長い首、もちろん皮膚に斑模様はついていなかったけど、額に灰色のあざがあった。
 彼女の本名は覚えていない。印象に残っているのは「キリンさん」という呼び名だけ。はっきりと確認したことは無いけどそれはおそらく好意による愛称ではなかっただろうと思う。キリンさんは奇抜な人ではなかったけどその容姿と言動からクラスメート達には避けられていたし、人に動物に由来した渾名がつく場合、その大抵には悪意や嘲りが込められているものだ。
 キリンさんは小学校五年生の秋に私達のクラスに転入して来た。私は転校生というものはドラマなんかでよく目にするとおり、朝の会の始めに先生に名前を呼ばれて前の戸から入ってくるとばかり思っていたのだけどどうやら昨今そういうパターンはほとんど存在しないらしい。
 キリンさんはいつのまにか五年四組の教室にいた。自らの複雑な立場を弁えているのか隅の席で膝に手を置き静かに座っている。みんなはこの転校生という名の他者を持て余しているように見えた。
 担任教師は授業に入りかけ、不意に思い出したようにキリンさんを黒板の前へ呼ぶ。キリンさんは型どおりの控えめな挨拶と小さなお辞儀を終えると、先生と並ぶくらい無気力かつ投げやりな足取りで席へと戻っていった。


 異端者は黙殺せよ。それが五年四組の下した判断である。
 キリンさんには人当たりの柔らかさというものがさらさら感じられなかった。クラスメートが気を利かせ他愛ない質問を振っても一語きりの返事でそっけなくあしらうだけ。
 キリンさんが現れて一週間、ようやくみんなも彼女が転校初日におとなしくしていたのは単に誰とも関わりを持ちたくなかったからだったと気付く。途端に誰もが彼女に話しかけることをやめた。つまりこれが彼女を掟破りの村人とした村八分の始まりだったわけである。
 ただこの村八分はいじめに発展することはなかった。五年四組の面々の良心がそうさせたのではない。キリンさんはどこか気高くそれでいて屈強な雰囲気を纏っており、集団で遠ざかることはしても個人ではとうてい太刀打ちできそうになかったのである。
 みんなはそれぞれ自分が傷つくことをなにより恐れた。ゆえにキリンさんに直接危害を加えずに済む存在の否定、つまり無視という方法を取ることにしたらしい。でも他人との接触を厭っていた彼女にとってそれは願ったり叶ったりだったわけで、村八分といっていいかすらもあやしかったと今の私は思う。


 キリンさんはよく黄色いワンピースを着ていた。それは長身の彼女にとても似合い、しなやかな肢体がよりいっそう目立つデザインで、人目を引く力を持っていた。
 クラスメートの一部、とりわけ男子はキリンさんのそんないでたちを喜んでネタにする。結果彼女のキリンさんという渾名が出来たのか、または元からあったそれが広く浸透するきっかけとなったのかは定かでない。  しばらくするとキリンさんは五年四組の当初の筋書きどおり、端から存在などしていなかったかのごとく扱われるようになった。彼女もまたそれに応え苦にしている様子を見せたことはない。担任教師はというとどうやら生徒の目に留まらないところで彼女には煩わされていたようで、その上余計な面倒は抱えたくないと思ったのか特に口出しはしてこなかった。そうしてキリンさんという渾名は学校外で友達同士の話題に彼女が上せられるときにのみ使われるようになった。
 私は元来口数が少なくクラスでも地味な部類の人間だったから、みんなよりも更に離れた場所から遠巻きにしているだけだった。それはキリンさんがありふれた転校生の女の子としてクラスに馴染んでいたとしても同じことだったと思う。私は自発的になにかをするのが苦手だ。


 私がキリンさんと口を利いたのは一度きり。今にして思えば一度あっただけでも信じられない。
 二学期最大の行事、運動会の前日のことだ。クラスごとに準備の仕事が振り分けられており、五年四組では万国旗のセッティングがそうだった。廊下に細いロープを渡し、そこにクラス全員で世界各国の国旗が描かれた布を一枚一枚手作業で結び付けていく。
 作業開始から十数分、私がトイレに行くと珍しくグレーのパーカーを羽織ったキリンさんがいた。私は一瞬気まずさを背負いながらも、へんに気を回さず黙っていればいいのだということに思い至り無言で通り過ぎる。ことを終え個室から出ると彼女は今度は出入り口の前でお腹を抱えてうずくまっていた。いよいよ見て見ぬ振りの出来ない状況に追い込まれた私は慌てた声を作って言う。どうしたの、先生呼んでこようか。たったそれだけの言葉で口の中は渇き切り、私はまるで禁忌、いやむしろ聖域にでも触れたような気分になっていた。
 そうやって緊張しながらキリンさんの返事を待ったけど彼女はいっこうに口を開こうとしない。それもそのはず、彼女はそのときまさに激しい嘔吐を繰り返していたのだ。その光景を目の当たりにした私は立ち竦み身動きひとつ取れなかった。
 そして気付くと私は教室に戻ってきていた。それまでの記憶は今でもなぜかすっぽりと抜け落ちている。朝目覚めてから夢の内容を思い出せないのと似たもどかしさを伴って。
 後から聞いた話によるとキリンさんは生まれつき胃を患っていたらしい。そうと知るまで私は彼女が度々体育の授業を見学しているのを単なるサボりだと決め付けていた。


   二学期も後半に差し掛かった十月のある日、事件は起こった。
 よく晴れた日の朝。キリンさんが普段どおり登校して廊下を歩いていると、「毎日のように黄色いワンピースを見につけている女子がいる」と彼女の噂を聞きつけた上級生の男子二人がふざけ半分で彼女を背後から突き飛ばした。彼女がこの日もあのワンピースを身につけていたのはいうまでもない。
 その内面とは対照的にか細いキリンさんの体は勢いよく斜めに倒れこみ、廊下の窓ガラスに衝突した。衝撃を受け割れたガラスは粉々になって四方八方に飛び散る。彼女はガラスにぶつかった弾みで足を滑らせ転倒し、その拍子に目に入ったガラスの破片により角膜を損傷、以後彼女の右目が光を感じることはないのだった。
 事件後勃発した被害者側と加害者側の紛糾――法廷まで持ち込んだとか持ち込まないとか――のあらましを私は詳しく知らない。クラス内でそれについては一切追求しないという暗黙の了解があったためだ。
 キリンさんは入院し間もなくまた別の学校へと転校していく。このときも彼女のその後を詮索する者はいなかった。転入したときと同じように形ばかりの「お別れの挨拶」をしに五年四組の教室を最後に訪れた日、彼女は確かに黄色い服を着ていたけれどその形状はワンピースではなくTシャツだった。
 翌日からの五年四組にさしたる変化は見られなかった。そもそもキリンさんなんて人はいなかったことに今までもこれからもされているのだから、至極当然のことだったのかもしれない。
 クラス中から小さなしこりが取れたような、あえて言葉にするなら違和感みたいなものが消えていたのも事実だが。


 もう三年も前、しかもたった二ヶ月にも満たない間の出来事だ。今の今まで忘却していたくらいの。
 あれ、旭川さん? その声に私は飛び上がるほどの驚きを禁じえなかった。振り返って声を確認する。顔立ちも声ももう記憶の中にはない。それでもこの動物園のキリンの檻の前に佇んでいるその人こそがかつての「キリンさん」だと私は瞬時に悟った。
「私のこと覚えてるの?」
 私は聞き返した。真っ先に浮かんだ素朴な疑問だった。だってほんの短期間いただけのクラスで影の薄かった私を、三年経った今でも咄嗟に判別でき名前まで呼ぶなんて。この人は私に何か強い恨みでもあるんだろうかと身構えてしまう。
「知ってる? 旭川さん」彼女――キリンさんは私の問いかけには答えずに続ける。「キリンってね、食べたものを戻すとき目を高速で白黒させるんだって。それから右の後ろ足で地面を強く強く蹴りつける」
 私の脳裏を凍りついたおぞましさとともにひとつの記憶が駆け巡った。小学校の薄暗い女子トイレ。そうだ、あのとき私は怖気づいて繰り返し呻いているキリンさんを残して立ち去ったのだ。
 長年かかっていた靄が晴れ渡っていくような清涼感を覚えるが早いか、私は途方もない後悔に苛まれていた。どうして今日ここに来てしまったのだろう、どうして彼女と再会せねばならなかったのだろう、こんなこと一生思い出したくなかった。
 キリンさんが笑う気配がしたけど、私は下を向き続けていたから真実は分からない。
「今の皮肉じゃないわよ」と彼女が前髪をかきあげた刹那、濁ったあざが覗いた。「ねえ、クラスのみんなどうしてる?」
「どうしてるって聞かれても、ふつうだよ。私立の中学行った子も何人かいるけど、大半は小学校のころと変わらないメンバーで……」
 動物園に来てまでこんな話をしている自分がむなしくなった。キリンさんの顔を盗み見る。澄ました面持ちで檻の中のキリンを熱心に見つめていた。
「そうなんだ。私のことたまに話に出たりする?」
 キリンさんの右の黒目が私をとらえた。実際にはその瞳には何も映っていないはずだ。なのにどうしてだか私にはそれが真っ赤な嘘に思えて仕方がない。彼女は確かに私の強張った顔を見据えている。光を認識できるかどうかなんて問題じゃない、その眼は絶対に私を鋭く貫いている。
「うんあの、たまにね。小学校の思い出話とかするときに」
 キリンさんはふうんと鼻を鳴らして微笑んだ。キリンの檻にゆっくりとゆっくりと近づく。その動作は最早、キリンのようなという形容で語るべきではなかった。私にはキリンそのものに、見えた。
「ありがと旭川さん。また会えたらどうぞよろしく」
 キリンさんは三年前のぶっきらぼうさからは考えられない満足げな笑顔で言って、もう普通の少女の歩き方で木漏れ日が落ちる道の中へと消えていった。
 私は呆然としたまま立ち尽くし、キリンの頭部を仰ぎ見た。全身で重石にのしかかられたようなけだるさがする。キリンは私の遥か上方で悠然と草を食べていた。私にはその草が反吐に見えた。
 頭の中の遠く彼方から強烈に眩しい光が射し、ごおんごおんとばかでかい鐘を突き散らす音が響いてくる。私は重い足を引きずりキリンに背を向けた。
 キリンさんが今日もあの黄色いワンピースを着ていたことを付け加えると、これは蛇足になる。


[08/04/12]
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