優柔不断は直らない(5)
The Child is Mother
私は子供のくせして子供を演じようとする救いようのない馬鹿で、巴月は必死で大人ぶるどうしようもない子供。どっちもどっちではあるけど、私のほうが断然たちが悪い。
本人が自ら緘口令を敷いたため、巴月が前川を殴ったことは表沙汰にはならなかった。殴られたことについて心当たりを聞かれても一貫して「わからない」と答えながら、実は前川はその理由に感づいていたわけである。とはいえ人の口に戸は立てられぬもので、先生方の耳には入らなかったもののクラスメイトたちには秒単位で伝播し、巴月を取り巻く空気は微妙に変わった。なんとなく、だけど確実に、距離が置かれるようになったのだ。それでも巴月は気にしていないのか強がっているのか諦めているのか、涼しい顔をしている。
私たちの間では、そうと申し合わせたわけではないけどどちらからともなくあの日の出来事はなかったことにされていた。
「おはよう」
「あ、おはよう」
翌日、私がつい普段通りの声色で当たり障りのない挨拶をしてしまったせいかもしれない。時間割りとか宿題とか日常性に溢れた会話が展開され始め、とても前日のシリアスな話題を引き継げる雰囲気ではなかったのだ。
だから一見なにも進展していないようだけど、実はそうではない。
あの日を境に私は巴月にへんな鎌をかけることや捻くれた言動を取ることをやめたし、巴月はたぶん、私のことを吹っ切った。いや、吹っ切ろうとしている。
あっつい、と呟いたつもりが声は出ていなくて、あれ?と思った瞬間にはもうテニスコートの脇のコンクリートに膝をついていた。背中から倒れなかっただけマシか、なんて妙に冷静なことを考えながら、視界が段々暗くなる。
「あ、榎本さん」
先生の声が聞こえた。耳慣れた名前、だけど先生、私は樋口です、そう思ったところで身体がどこかに着地して意識が飛んだ。
「……う」
断続的な振動。気がつくと私の足は宙に浮いていた。瞼を開けてまず目に入ってきたのは体操着姿の誰かの後頭部。瞬間、すべてを把握する。
「……」
「嘉歩?」
声を掛けるのがなんだかもったいなくて思いとどまったけど、気配は伝わってしまったらしい。巴月は足を止めて私の位置と反対方向へ目線を注いでいる。私はその目を斜めから盗み見て、ああ今この人にはなにも見えていないんだなと思った。
「あの、もういいよ。重いでしょ」
膝の裏に掛かる力が強まる。巴月は私をおろすどころか大またで歩き出した。
「熱中症でぶっ倒れた人を歩かせられません」
「……ありがとう。ところで先生は?」
後ろからじゃ気づかないと思って油断しているんだろうか、私が聞くと巴月は珍しく露骨に色をなした。
「ごつい体育教師に抱きかかえられるほうがよかった?」
「ううん。若くてかわいい女の子におんぶされて嬉しいです」
答えると巴月はあーともえーともつかない唸りを上げてさらに早足になった。
養護の先生は保健室に入ってきた私たちの姿を見て目を丸くし、口癖なのか「まあ」を連発した。熱中症で倒れたんですと巴月が説明すると、
「まあ、それでおぶってきてくれたの? 友達思いねえ」
と大げさに抑揚をつけて言った。
「とりあえずこれ飲んで、むこうで横になっててね。見たところ軽症だと思うけど、気分が悪くなったらすぐに声掛けて」
ペットボトルを受け取りながらはあいと返事をして、力の入らない身体を部屋の隅にあるベッドの上に横たえる。巴月がカーテンを引こうとすると先生は「あれ?」と意外そうな顔をした。
「榎本さんここにいるの? 授業に戻っていいのよ」
「あ、えと」と巴月は頭をかく。「付き添ってちゃだめですか」
先生は「うーん」少し考えて、「ここに来るって先生にちゃんと伝えてきたならまあいいわ。それにしても心配してるのね」と微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして薄水色のカーテンに囲まれると、ここはもう別世界。基本的に健康体の私からすれば、授業中に保健室にいること自体がそもそも非日常なのだけど。
「ほんとにありがとね。意識ない人間ここまで運んでくるの辛かったでしょ」
「うん。でも」と巴月は私の膝のあたりにに軽く腰掛ける。「あたしがしたくて勝手にしたことだから。それこそ先生に頼んでもよかったわけだし」
今までにはありえなかったその余裕のある言葉と穏やかな表情に背筋が寒くなった。
「この前のこと、ごめん」
突然向けられた神妙な面持ちに私はうろたえた。その言葉で話の口火を切らなきゃいけないのは私のほうだったのに。それに巴月が謝ることなんて何もない。混乱が混乱を呼び、思考が回らなくなる。私の無言をどうとらえたのか巴月は続けた。
「あの時も言ったけど、あたし自分のことしか考えてなかった。前川も、嘉歩だって何も悪くないのに、嘉歩を責めるようなこと言って」
たくさんのものがめまぐるしく私の中をかき乱していく。熱中症の症状では絶対にない動悸がする。
「すごく後悔した」
話している内容とは裏腹にとてもすっきりとした表情だった。「後悔」すらも通り過ぎて、巴月の中ではすでにただの過去でしかないのだろうか。
「好きなら好きって言って、さっさと諦めてればよかったんだ」
「なんで」
自分でもぎょっとするほど悲痛な声色だった。起き上がって巴月の右肩を掴む。「横になってないと」と窘めながらも巴月はその手を離すことはしなかった。
「なんで諦めるの」
「なんでって、じゃあ応えてくれるわけ?」
頭の中では、そうだよ、って答えが瞬時に出たのに私は口ごもってしまった。その一言ですべてが解決するにも拘らず、だ。私は正真正銘の馬鹿だと思う。巴月はむっとして「ほら」と声を張り上げた。
「でも、でもその程度なの? 巴月が私を好きっていうのは、そんなにあっさり諦められるような話だったの?」
心臓がますます激しく鼓動する。返事を聞くのが怖い。
「水」と巴月は布団の上に転がっていたペットボトルを拾い上げた。「飲んどきなよ」
「はあ?」
350ミリリットルのミネラルウォーターを、何を思ってか上下に振っている。私の質問に答えないどころか自分で飲めといったそれを手渡そうともしない。これは遠まわしの回答? ううん、巴月はこんなまどろっこしいことは絶対にしない。私じゃないんだから。
「なんで無視するの」
「熱中症の中でも嘉歩のは熱失神ってやつだと思うけど、第一に水分補給だから」
「なんで無視するの」
「あと着てるもんはあっためたほうがいいから布団かぶって」
「なんで無視するの!」
三度目の正直・今度という今度は、聞こえない振りなんてできっこない大声で叫んでやった。そのぶん次にやってきた沈黙とのコントラストが苦しい。
巴月は私の目を見て、躊躇みたいな間を置いてから口を開いた。
「諦められるような思いなら、こんなことにはなってない」
「……あ」
今度は私が固まる番だった。巴月の目線にしっかりと捕らえられる。嬉しさと愛しさと罪悪感とで息苦しい。
「でもこのままでい続けたって不毛だし、嘉歩だって面倒だろ。もういままでみたいにかまってくれなくていいから」
優しい笑みをたたえて、けれど泣きそうな声で言い終えると巴月は腰を浮かした。
「待って」
私の訴えに巴月は足を止めた。だけど背を向けたままこちらを向こうとはしない。
「面倒なんて思ってない。もしそうならとっくに切り捨ててるよ。私だって」
私だって、あなたのことが好きなのに。その言葉はやっぱり出ない。喉にそういうプログラムでも組み込まれているのかもしれない。
校庭で上がった歓声が、階下の教室の授業の声が、廊下を通り過ぎて行く誰かの足音が、私をかろうじて現実の世界につなぎとめている。
巴月はゆっくりと歩み寄ってきて私の上体のバランスを崩した。ギシ、とベッドが軋んだ音を立てる。押し倒される瞬間に思わず閉じた目を開くタイミングが掴めない。
時計の秒針の音を耳が急に拾い始める。意味もなく数えたカウントが30を突破したあたりで薄目を開けた。
「私だって?」
想像以上に間合いが近い。巴月の襟の中がばっちり目に入り不覚にもどきどきしてしまった。
「十四年間楽しかったよ。もう知らない振りなんてしないし意地悪も言わない」
「で?」
「だから、……諦めるなんて言わないで。これからもずっと好きでいて」
これが今私にできる最大限の告白。同時に巴月にとって最も酷な願い。
巴月は一瞬とても怪訝な顔をして、口を尖らせた。
「意味がわからない。ていうか、それこそ嫌がらせ?」
「ちがう、巴月を苦しめたいわけじゃない、今までも」
口にしながら我ながら説得力がないなあと自嘲する。巴月が眉を寄せるのが見て取れた。
「巴月の隣が居心地良いの。生まれたときからだよ? それをこんなところで終わらせたくない」
巴月の瞳に戸惑いが走ったのを私は見逃さなかった。痛み続ける良心よりもわがままが勝る。私は巴月以上に自分のことが好きなのだ、きっと。
「あたしは」と鋭い面持ちに引き絞ったような声。「肉欲込みで嘉歩が好きなんだけど」
どういうこと、なんて無知を装ったって巴月には通じない。ごくりと唾を飲む音がしたけど、誰のものだろう。
男子の性欲処理に使われたと知っても大した葛藤はなかった。なのに今、私はおおいに緊張している。
「気持ち悪くない?」
「だとしたらどうなの」
言い終わるが早いか太ももに重みが加わった。うわ、とうっかり声を漏らしてしまった瞬間、巴月の口元が悔しげに歪む。
「どうしようもないから辛いんだよ!」
下半身が熱い。窒息しそうなくらい、呼吸が詰まる。
真情を吐露しているだけで巴月は私のことは何一つ責めていない。優しさも人並外れると身を滅ぼすのだ。直接そうした私が思うのだから、間違いない。
カーテンが揺れている。この世界には私たち二人しか存在しないみたいな錯角を起こしていたけど、ここは学校だ。
「巴月」
「なに」
「性欲ってどんな感じ?」
もちろん巴月はその問いを黙殺して、惜しむようにやおら身を起こした。
「なんかもう、わけわかんないけど」とため息をつく。「嘉歩に頼まれたら従うほかないんだよな、あたしは」
「……私って酷いかな」
うん、という答えが頭の中にがんがん響いてきたけど振り切った。巴月は肯定も否定もせずあいまいに「惚れたほうが負けってこと」とらしくないせりふを唱えてはにかむ。その理屈なら、真の「負け」は私が手にしているはずなのだけど。
「襲われるかと思いました」
「できませんそんなこと」
「しません、ではないんだ」
口をつぐむ巴月に私はありがとうと微笑んでみせる。巴月はきょとんとして、なにが、と言い捨てた。
好きになったひとりのひとを、ここまで真剣にさせた。私の人生における初の快挙だ。
チャイムとともにカーテンの外に出ると、養護の先生は私たちをまじまじと見比べて、構えるみたいに「もう平気?」と尋ねてきた。
「おかげさまで。って、言うまでもないと思いますけど?」
「あはは」と笑う顔も引きつっている。「じゃあお大事に。あー、えっと、応援してるわ、うん」
「ありがとうございます。失礼しましたー」
廊下に出ると巴月は「先生いるの完全に忘れてた」と苦い顔をした。
「応援してくれるってさ」
「それは嘉歩が言うことか」
静かな廊下に穏やかな足並みを揃える。この上ないくらいの果報者は最後にこう問いかけた。
「いつから好きでいてくれた?」
即答でもしたら、勝ちなんて永遠に渡さないつもりだ。
[08/07/08]
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