優柔不断は直らない(4)
All's Fair in Love and War


 私と巴月が――正確には私が教室に入ると、それまで和やかだった空気が一転して張り詰めた。無遠慮に好奇のものと取れる視線を投げてくる人もいればひそひそとささやきあっているグループもある。巴月に目で尋ねても心当たりはないみたいだった。
 なに、と言った私と巴月の声が見事に重なり、あのね、とクラスメイトの声も加わった。
「ちょっと言いにくいんだけど、……嘉歩ちゃんこっち来て」
 巴月はだめなの、と言いかけると「榎本もいいよ」と先回りされた。榎本もいいよのいいよという言い回しが少々引っ掛かったけど言及はしないでおく。
 教室の隅に座り込む数人の輪に入ると、一人が押し殺したような小声で話の口火を切った。
「うちのクラスの前川がね、嘉歩ちゃんの写メ持ってたんだって」
「は?」
 私は急に出てきた名前に困惑し教室を見回したのだけど、偶然か必然か前川の姿はない。
「写メってなんの?」
「なんのって言うか、ええと」
「だから盗撮よ盗撮」と煮え切らない言葉尻に焦れたらしい一人が口を挟んだ。「で、その嘉歩ちゃんの写メを使ってたんだって」
「つかってた?」
「おかずに、ってこと」
 その歯に衣着せぬ物言いに何人かが顔を顰める。私はその一言を何度か反芻してようやく事態を飲み込んだ。かなり遅かったと思う。
「……そうなんだ」
 内容が衝撃的でなかったと言えば嘘になる。だけど黄色い声を上げるクラスメイトに生返事を返す私がなにより気がかりなのは、背後で一声も発さずに立ち尽くしている巴月のこと。
 胸騒ぎがする。


 生まれてこの方、こうもいっぺんに幾多様々の悪感情に襲われたことはなかった。最初で最後、と思いたい。
 前川という男子とは特に親しくはないけど、三年間同じ教室で過ごしてきているのでおよその人柄は分かる。目立ちたがりやのくせして小心者。人間的に好きでも嫌いでもないタイプ。とてもどうでもいい、いや、どうでもよかった。
「男子が現場を目撃したんだって。校庭の鉄棒脇のトイレ、だったかな。気持ち悪いっしょ」
 その報告には嫌悪感と、好奇心とが滲んでいた。
 前川の席は隣の列の前から二番目。授業中、いやでも目に入る位置。
 息苦しさがした。前川の後姿が少しでも視界にちらつくたび怒りとおぞましさを覚える。あいつは嘉歩を汚したんだ。己の腕の中であるいは外で、非道な行為を強要したに違いない。怒りに因る想像は自然と悪い方向へ行き過ぎる。
「巴月、つぎ生物室だよ。行こ」
 はっとして顔を上げると嘉歩が教科書を胸に抱えてあたしの席の真正面に立っていた。それはつまり授業が終わって今は業間休みということなのだけど、あたしの机に広がったノートはまったくの白紙。あわてて閉じたけど目ざとい嘉歩が見落としたはずはない。
「今日って理科のあとは何だっけ」
 あたしは手付かずのノートに話題を移されるのを恐れて気になってもいない質問を返した。
 英語、と嘉歩が答えた瞬間、あたしたちの右横を足早な前川が通り抜けた。机の中をかき回し続けるあたしはきっときわめて挙動不審で、前川の存在自体を消したみたいに涼しい顔をして瞬きの頻度さえ狂わない嘉歩とは対照的。嘉歩はあたしといて、悔しいって感情を抱いたことがあるのだろうか。あたしにはその答えの見当がつくから、なおさら悔しい。


「あのさ」
 巴月は不自然な大声で話の腰を折ると、緊張した面持ちで箸をとめた。この後の流れの大体が読めた私は目で続きを促す。
「嫌じゃないわけ?」
「なにが」
 意地悪く聞き返す。巴月は一瞬目を伏せてからぼそっと「朝の話」と答を返した。
「嫌っていうかむしろ嬉しいかも」
「はあっ?!」
「冗談だって。叫ばないでよ」
 実際遠くない気持ちはあった。なんとなく女として認められているような、妙な充実感。本当に卒倒しちゃいそうだからさすがに巴月には言わないけど。
 頭の中で計算が進む。この状況を利用できるかもしれない。私のことで巴月をもっと煩わせる、ことができるかもしれない。そう考えて自分はサディストだったのかと驚いた。
「嫌ではないよ、べつに」
 宙に泳いでいた巴月の視線が私に注がれる。教室のざわつきが心地よかった。
「だって私に直接は関係ないし」
 正直、前川のことなんてどうでもいい。前川が私をどんな目で見ていようとそれは結局前川の問題。迂闊に想像力を働かせてしまうと多少複雑な心境にはなるけど。
「でも」と巴月は声を張り上げる。「でも、だって、気持ち悪い、とか」
「思わない、かな。それ自体、悪いことじゃないし」
 巴月の顔からさっと血の気が失せた。その打ちのめされているさまを目の前にして私は愉悦に浸る。巴月を沈ませることが楽しいのではなくて、自分が愛されていると掴めるのが嬉しい。


 いつものように試しているのかもしれない。物事はどうとでも都合よく解釈できる。
 あたしには信じ難いことに、嘉歩は前川に嫌悪感はおろかなんの感想も抱いていないようだった。あたしへの当て付けなのか、本心なのか。どちらにしてもあたしは見事に満身創痍にされた。
 自分を邪な目で見ている前川に対して、蔑みの言葉を吐き出し、苦り切ってほしかった。それは嘉歩を苦しめたいからではない。たとえ空想や妄想に過ぎなくとも、嘉歩をほかの誰かに辱められるなんてあたしには耐えられないのだ。
(あたしだけだ、嘉歩に触れていいのは)
 前触れなく形を結んだその思いは、たぶん今までもずっとあたしを支配してきていたのだろう。前川への憤りも、そこから派生した嘉歩への悔しさも悲しみも、すべてはその独占欲という感情に根ざしている。
「巴月、今日って生徒会あるの?」
 なんて身勝手なのだろう、と自嘲した。つまるところあたしは自分のことしか考えていないのだ。
「ないけど」とあたしは嘉歩に背を向けた。「用事あるから先帰る」
 えっと嘉歩は声を漏らし、当惑気味にまた明日ねと続ける。少しでも声を出したら動悸が伝わってしまいそうで、あたしはそのまま振り返らずに教室を出た。廊下の人混みを縫って大股で歩く。前川の所属する陸上部が前庭で走り込みをしているのが窓から見えた。
 利己的でもわがままでも無分別でもいい。あたしはあたしのために怒るのだ。
 試されているのかもしれないという憶測は依然としてある。でも、嘉歩はいったいあたしの何を試しているのだろう。


 グーでは殴らなかったらしい。その事実を聞いた瞬間私は安堵の波にさらわれた。
 クラスメイトの話によると、巴月は周りが見えていないような迷いのない足取りで陸上部の練習に割り込んだ。目を見張ったり野次的な質問を投げかける部員をことごとく無視し前川の前まで歩み寄ると、躊躇なくビンタを食らわした。前川も周りにいた部員も唖然として立ち尽くしていた。巴月はとうとう無言のままその場を立ち去った。
「なんで」
 思わず呟いて走り出したけど、訳なんてとうに分かっている。私のせいだ。向こう見ずな私は巴月を窮地にまで追い込んでしまったのだ。
 後方に流れ続ける景色が褪せていく。息切れも脚の痛みも、いくらかの厚み越しにやってくる。自分を駆り立てているのが罪悪感なのかあるいはほかのものなのか、私はまだ判断できずにいた。
 ぼやけた世界のなか、ある一点だけが急速に色濃く輪郭を形成し始める。巴月はコンビニの前でペットボトルの紅茶を飲んでいた。うつろな目で、と思ってしまうのは先入観だろうか。
「巴月」
 我知らず叫ぶと巴月は緊張しきった面持ちを私に向けた。目が合うと先に逸らして頬に睫毛の影を落とす。
 口を開きかけて、次の言葉が出てこないことに気がついた。私は今、巴月に何を伝えればいい? 感謝、謝罪、叱責、そのどれも違うと身体の奥で警告音が鳴っている。足がすくむ。


 嘉歩があたしのしたことを聞いてここまで来たのは明らかだった。嘉歩はあたしを軽蔑するだろうか、それとも揶揄するだろうか。でももう先のことは考えたくなかった。嘉歩の意図や思考は読めないままだし狙いも見えない。そういうことに頭を使うのに、十四歳のあたしは疲労困憊している。
「帰ろうか」
「え」
 戸惑いを浮かべながらも嘉歩は黙って後をついてきた。傾きかけた日差しがあたしたちの姿を地面に倒す。分かれ道である三叉路まで沈黙はついに破られなかった。
「嘉歩、ごめん」
「なんであやまるの」
「嘉歩を理由に仕立てて前川を殴ったから。本当は自分勝手に怒ってただけなのに、正当化しようとした」
「そんなの、……そんなの巴月が謝ることない」
 嘉歩は涙声だったけど、顔を見ることはできなかった。信号機に視線を合わせる。
「お互いこういうのもうやめよう」
「やめるって」と嘉歩はおびえた目つきをした。「どういうこと」
「いいよもう。分かってんだろ、あたしが嘉歩を好きってこと。分かっててからかってあたしの一挙一動を楽しんでる。違うか?」
 嘉歩はもの言いたげな顔をして、五センチも身長の違わないあたしを見上げている。
「疲れた、全部。だからもう堂々巡りはやめる。あたしは嘉歩が好き。これでもう知らない振りはできないだろ」
 あたしはそこまで言い切ると嘉歩の頭に手をおいてじゃあまた明日と声を掛け、驚くほど軽くなった両脚で帰路についた。しこりが取れたような爽快感もあるけど、それでも正直明日嘉歩と顔を合わせるのが怖くて怖くて仕方ない。


[08/05/27]
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