真昼の月とあなたの手(4)What's Done Cannot Be /4
いたい、と嘉穂は喉の奥から声を上げ両手で顔を覆った。指の隙間からかたく結ばれた瞼が見える。あたしはごめんと謝り――だってほかになにができるというのだ――嘉穂の返事を待った。
「いたい、やめて。ごめんなさい」
最後に付け加えられたひとこと、ことばの順序に、普段滅多に覗くことのできない嘉穂の本音が透けていた。なにもこんなときに、とあたしは嘆く。
それからのことはよく覚えていない。なきたくなったけど笑って冗談を言い、嘉穂も笑みを作るくらいの余裕を取り戻したのを確認するとすぐさま部屋を出た。玄関から一歩踏み出したとたん堰を切ったように目から水が溢れ出して、下を向きながら家路を急ぐことになる。
自分の部屋に着くとなにも考えずにベッドに倒れこんだ。寝ようとしたけど気を抜くと次から次に後悔が押し寄せてきて、頭はどんどん冴えていく。気付くとあたしは夜中まで廃人のように身を横たえ続けていた。
肌を合わせることに嘉穂が頷いたのは、きっと意地。あたしとは違うということを痛いくらい頭に刻み込んできたはずなのにそれを見抜けなかった。悔しいどころの話じゃない。
嘉穂の本心を汲めなかった自分が、恨めしい。
己のことしか考えられなかった自分が、醜い。
他人への思いが介在する自己嫌悪はひどく疲れる。いろんなものを消耗する。それでもあたしはやめることができなかった。
あのまま嘉穂がとめなければ、あたしの行いは強姦になっていた。いや、あるいはすでにそうなのかもしれない。いくら状況に目がくらんだとはいえ、自分を恋愛対象として見てくれない相手に手を出すなんて最低だ。もしもほかの誰かが嘉穂に同じことをしたら、と想像するだけでも吐きそうだし、あたしはそいつを殴るだけじゃ絶対にすまない。
たいせつなひとに最もしてはいけないことを、あたしはしてしまった。守りたかったはずの相手の尊厳を、侵してしまった。もう嘉穂はこっちを向いて笑いかけてはくれないかもしれない。ううん、そんなことよりも。
あたしは嘉穂に、ふかく根を張る傷を残してしまわなかっただろうか。
最後の最後で望むのは、二人の幸せじゃ、ない。
私を見下ろす巴月の上気した頬、潤んだ瞳が忘れられない。瞼の裏に焼きついて、目を閉じるたび私の思考を縺れさせる。
自分以外の誰かに体を触られるということは、予想以上に多くの力を伴うのだと思い知らされた。その中には痛みも存在しうるのだとも。
痛いと感じた瞬間、考えるよりずっと先に、声が漏れていた。自分のその言葉を聞いて血の気が引いた私は慌ててごめんなさいと取り繕ったけど、かえって酷な真実を伝えてしまったのかもしれない。巴月は今にも泣き出しそうな表情を無理やり笑顔で塗りこめて、とめるのを聞かずに帰っていった。かのじょの体温が残る身体が切なかった。
あれから三日経って月曜日である今日、教室に巴月の姿はない。担任教師に理由を聞くとさらりと「病欠」。そのなんの引っ掛かりもない口調に傷ついたけど、私が傷つく資格なんてこれっぽっちも持ち合わせていないことは重々承知している。
そう、私の葛藤なんか巴月のそれには遠く及ばない。だいすきなひとの思いを踏みにじった私の罪は、まだ誰からも責められる由がないのだ。四知とはいうけどこの隠し事を「子」は知らず、露見については私自身が完全にコントロールしている。
自分だけ強烈に愛されていたいから。
与えることに付随する労を巴月に買ってもらいたいから。
自分本位過ぎて、利己的過ぎて泣けてくる。けれどその思いも自己嫌悪には至らず悪循環が続く。
手探りで私のスイッチを探す巴月のはたらきを、私はたったの一語で台無しにしてしまった。ひどいことをしたと心から思う。手遅れになった罪悪感を胸に、私は途方に暮れた。
痛かったのは本当だし、怖さもあった。当たり前だ、後悔しないなんて言ったけど、そんなことありえるはずがない。だって私たちはまだ「友達」同士なのだ。意地や焦りは冷静な判断と理性を損なわせる。
最善策は明白。私がさっさと思いの丈を打ち明けること。そうして目の前にある限界を乗り越えたら、八の字に広がる解放の道が果てしなく伸びている。そのうえにふたりぶんの跫音が響くときが、等価交換を土台にした心地よいつながりの始まり。
――だけど。ここは本当に限界?
ほら、堂々巡りが終わらない。
[08/08/07]
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