真昼の月とあなたの手(2)Nothing Water,Nothing Life /2
一人になるとすぐに後悔の波に襲われた。
あんなこと言うつもりじゃなかった。もうやめるって決めたのに、長年の癖はなかなか抜けない。それでも罪悪感を覚えて、はっとする。少し前の自分なら喜んでいるシーンだ。これって成長?
肉欲込みで好き、と巴月は言ったけど、私にはいまひとつピンとこない。というのはもちろん嘘だ。少女に性欲はないと本気で信じ込んでいる人もいるみたいだけど、ばかじゃないかって思う。同時に、実際にそうなら……と「もしも」にとらわれてしまったりもする。
あの綺麗な曲線、巴月の身体に触れたい。それは今の私には許されていないことなのだ。
いらっしゃい、と声を掛けながら扉を開けると、訪問客は「こんにちは」と鳴れない言葉を口にした。こんにちは、と私も付き合ってみる。
「あ、なんだ嘉穂か」
「今誰もいないんだってば。どうぞ入って」
「おじゃまします」
私も巴月も必死でにこついて三文芝居を繰り広げている。そう長くは続かないと心のうちではとっくに感付きながら。
巴月は右手にスーパーのレジ袋を提げていた。今日はその中の材料を使って二人で昼食を作る予定。
……だったのだけど。
「ぎゃーっ!」
私が台所に立つとろくなことにならない。包丁は落とすわ野菜は余分に切るわ、挙句の果てには必要のない小麦粉をガスコンロにぶちまけてしまった。容姿のせいかイメージのせいか得意そうと言われるけど、家庭科は全般的に大の苦手。小麦粉を片付けようとすると巴月から待ったが掛かった。
「後始末はあたしがやるから嘉歩はもう休んでて。そのほうが早い」
ちょっとカチンときたけど、まったくの事実だし怒れる立場でもない。はい、としぶしぶ頷いてリビングのソファに寝転んだ。寝転んで、料理する巴月の後ろ姿を見続けていた。
パエリアとムニエル、と聞いてもイメージが湧かない。「ようするにめしと魚」と巴月は呆れたように教えてくれた。
「すごいね。いつも家でこんなの作ってるの?」
机の上に並べられた料理はそこらの食堂でお金を取るには十分すぎるように見える。同い年の幼馴染が作ったと俄には信じられなかった。
たまに手伝うだけ、と巴月は照れくさそうに答える。将来いいお嫁さんになるね、と言いかけあわてて口をつぐんだ。冗談にならない可能性がある。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
パエリアを箸で食べようとして失笑される。見た目だけでなく味も本格的で、おいしいおいしいと繰り返していると巴月は嬉しそうに「ありがとう」と笑った。「一番幸せだ、好きな人に喜んでもらえたら」
危うく咀嚼しかけた小エビを吹き出すところだった。頭の芯が熱くなる。動揺を悟られまいと「それはどうも」と極力無感情っぽく言ってはみたけど、巴月の顔を直視することはできなかった。
後片付けすらも手伝わせてもらえなかった私は、一足先に部屋に戻って塾の宿題という地味なひと時を過ごすことになった。メダカの血流の様子とか、今の私には心底どうでもいい。
こんこんとノック音がして巴月がエプロンの紐を解きながら部屋に入ってくる。私の手元に視線をやって、一瞬ものめずらしそうな顔をした。
「その宿題、理科?」
「うん。理数科狙う生徒用の塾なんだ、私はまだ決めてないけど」
「へえ……」
巴月は寂しさを押し隠すように呟く。やっぱりこのひとになら一生ついていきたい、と改めて強く感じた。でもそんな素振りは微塵も見せずに、黙々と鉛筆をすべらせる。巴月は手持ち無沙汰なのかプリントの上につくられていくその線をずっと見つめていた。
「ねむい」
声がぴったりと重なり思わず二人また同時に吹き出した。ここまで完璧なシンクロを見せていた私たちの言動は、このあと悪い具合にずれていくことになる。
「昼寝しよーか」
私がベッドに仰向けに横たわると、巴月は困ったように身を強張らせた。
「あたしは床で寝てろということですか」とちゃらける声も震えている。
「そんなひどいことはしないよ。となりどうぞ」
冗談半分の言葉だった。でも私を好きで好きでたまらないこのひとは、もう半分の本気だけを聞き取ってしまったらしい。
「手、出していいの?」
その問いかけとともに、巴月の右手が私の右耳に触れる。体中で一番つめたい箇所に巴月の熱が流れ込んできて、なんだかぞくぞくした。まさか全部計算していたんだろうか。
「気持ちはないんだろ? だったらすぐ起き上がるかあたしを帰したほうがいい」
思わず目を逸らす。いまはきっと告白のチャンスだ。にもかかわらず私の脳はまだGOサインを出してくれない。
なのに。
「いいよ」
「え?」
身が火照る。
「手、出していいよ。好きにしていい」
「なに言ってんの、おまえ」
突然、巴月の面持ちと声色が険しいものに変わる。私はびくっとして固唾を呑んだ。
「できもしないのにそんなこと」
「できるもん」と巴月の言葉を遮る。「できるよ、巴月となら。あなたにならなにされたって」
思いを打ち明ける前にこんなことを言う私も私だけど、ここまで聞かされて気づかない巴月の鈍感さもありえない。
「そんなわけない、だって好きでもない相手と」
「好きでもない? 巴月こそ笑わせないでよ、私が巴月のこと嫌いなわけない」
「でも」と巴月はほとんど泣きそうになりながら声を絞り出した。「……好きの種類が違う」
これで何度目になるのだろう、私は自責の念に苛まれていた。それでも深く自己嫌悪に陥ることがないのは、言うまでもなくいずれ訪れるであろうハッピーエンドを知っているからだ。
「違うことがそんなに問題? 巴月に向けているくらいの友愛があればセックスできるよ、私は」
巴月ははっとして大きく目を見開いた。それから気詰まりな間。窓の向こうの白い空を眺めていると、なぜか目眩を起こした気分になった。
「それは、……性愛じゃないの?」
「巴月からしたらそうなのかもしれない。でも自発的にそうしたいとは思わないし、私にとって巴月は唯一無二の親友だよ」
親友という輝かしい単語がこんなに残酷な響きを持つこともあるなんて思いもよらなかった。私ほどたちの悪い嘘つきも、そうそういないだろう。
「ふつう親友は性の対象にはならない」
「私はふつうが素敵だなんて少しも思わないけど」
「でも!」この狭い部屋いっぱいに巴月の叫びが染み渡る。「恋愛感情もなしにセックスしたら、それってまるきりセフレじゃん」
右耳の熱が離れて、かわりに喉元に巴月のてのひらが当たる。その圧迫感に加え、本気でないとはいえ私の首を絞めようとするくらい切羽詰まった巴月の心情を察して息苦しさに襲われた。
「ちがう」と私は心から否定する。「セフレなんて言葉使わないで。そんなに軽々しい関係も、希薄なつながりも求めてない」
「じゃあ一体なんだよ! 嘉歩の言うことの意味があたしには理解できない」
巴月の言うことはもっともだ。私だって自分の理屈にはちっとも共感し得ないのだから。
「理解なんて示さなくて構わない。違う人間だもん、通じ合えないところもあってあたりまえ」
「そんな一般論でごまかすんだ。嘉歩らしくない」
らしいとからしくないとか、勝手な枠にはめないで。もしも巴月以外の誰かから同じ台詞を吐かれたら、気の強い私はそう文句していたかもしれない。けれどいま目の前で涙をこらえているのは、同じ病院で生まれて以来肩を並べ続けてきた最愛のひとなのだ。
「友愛だとか性愛だとか、あるいは親愛、情愛って、限られた言葉のどれかに当てはめることが大切? さっきは仮に友愛って表現したけど、私は自分が巴月に対して抱えている思いに名前なんて付けられないよ」
私は弁が立つ。一気に並べ立てられた言葉に戸惑うように、巴月は瞬きを重ねた。
秒針の音がやけにうるさい。
首もとの巴月の手の甲にてのひらを置く。すると巴月ははじかれるように口を開いた。
「いちどしたらきっと戻れない。その覚悟は本当にできる?」
「うん」
心臓が高速で鼓動を始める。私の手も巴月の手も緊張で汗ばんでいた。
「後悔は」
「しないよ」
後悔なんてするはずがない。このときのために今日巴月を家に誘ったのだ。ただひとつ不安があるとすれば、私はすでに。
[08/07/29]
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