明日に泣かない /6


 残酷なるもの、筋違いのやさしさ。
 「枕草子」にこんなのがなかっただろうか。なかったか。
 存在するだけの侮辱の言葉をこのひとにぶつけたい。同時に、その舌で瞼を濡らしたい。ふたつの強烈な願いがぶつかり合い、わたしのなかにマグマを生み出す。
「羽那、絶対だからさ」努力すると游は言ったのだ。「これからも一緒にいて」
 わかってる、游に悪気がないことは。そのくらいは。だけどそれは悪くないことと同義じゃない。
「ひとを好きになるのに、努力するの?」
 はっと息を呑んで游は目を見開いた。
「帰って」
 さようなら、わたしの世界。


 枯れ葉を次々と踏みにじる。
 立冬の空は怖いくらい高かった。冷えきった風がスカートの内側に入り込み太腿を掠めていく。その感覚が異様に心地よくて鳥肌が立った。わたしって欲求不満なのかな、と考えて我知らず赤面する。
「どしたの羽那ちゃん、へんな顔」
「あ、いや」とわたしは慌てて両手を振った。「なんでもないよ」
 ふうん、とクラスメイトの憧子は腑に落ちないふうにいって、でもとりあえずは追及しないでおいてくれた。一瞬後、その思いやりも無となる。
「羽那ちゃんさ、中田さんと喧嘩したの?」
 わたしは動揺すると声が出なくなる。憧子があーあという目で冴莉を見ていた。続けてわたしに視線を移し、目で謝ってくる。
「……べつに」
「うそだ、だったらなんで最近仲悪いの」
「喧嘩したわけでも、仲悪いわけでもないよ」
 冴莉はとてもいい子だけど、ちょっと知りたがりなところがある。憧子がもう止めなと語気強めに制した。 「あ……ごめん」
「ううん、気にしないで」
 誰かに話してしまえればいくらか楽になるんだろうか。わたしの思い付きを読んだかのように、憧子が口を開く。
「でも、私たちでよければ力になるからね」
「……憧子さん、結局自分でもいってるじゃん」
「冴莉みたいな野次馬精神じゃあないんです」
 冴莉はひどーいと文句をいいながらも楽しそうに笑い、憧子の肩をはたいた。
 やわらかで、あたたかい手つき。
「……っう」
 突然の涙にふたりがかたまる。だけど、誰より驚いたのは私だ。


 冴莉の黒目に光が宿っている。
 とぎれとぎれになんとか話を終えると、妙な達成感に迎えられた。同時に不安もある。ふたりの顔がまともに見られない。
「羽那ちゃん」
 三人で座った公園の木造ベンチはときおり辛そうに軋んでいた。冴莉はなにかおしころすようにわたしを見据える。
「うん?」
「わたしちょっと感動した……」
 ああもう冴莉はまたKYなんだからと憧子は呆れたけど、内心わたしはほっとしていた。すくなくともこのふたりに嫌悪感を持たれることはなさそうだ。
「でもさあ」憧子の逆接に肩が震える。「中田さんってそういうキャラだったんだね」
「……どういう?」
 なんていうか、と憧子は控えめに前置きして人差し指を立てた。
「鈍感」
「鈍感? なんで?」
「羽那ちゃんの気持ちに気づかなかった」
 めのまえのひとがあまりにもあたりまえのことを述べるので、わたしはけっこう拍子抜けした。「ふつう」に「ともだち」として付き合ってきたのだから、游がわたしの好意のかたちに思い及ぶはずはない。そう憧子に意見すると「甘いね」とびっくりする答えを返された。
「私は気づいてたよ」
 刹那、思考が停止する。いままでずっと悟られぬよう微細な挙動や発言にまで注意ぶかく気を配ってきたのだ。なのに今年知り合ったばかりの憧子に見透かされているなんて。
「うそいわないで!」
「残念ながらまじです」
「憧子さんするどいっ」
 合いの手(?)をいれた冴莉に、憧子はまあねとにこついていた。遊ばれている。プライドの高いわたしは半ば喧嘩腰になった。
「憧子なんかに分かったわけない」
「そこが甘いとおもう。隠してるつもりでも、恋愛感情ってあんがいまわりには見えてるもんだよ。ましてや羽那ちゃんだもん」
「どういう意味?」
「わたしが説明しましょう」と冴莉が胸を張る。「ずばり、顔に出る! 百面相ってやつ?」
 きつねにつままれた気分でいると、憧子も「そのとーり」と頷いた。


「あのさ、わたし思うんだけど」
 中途半端な間を冴莉が破る。陽はだいぶ傾き、携帯電話の液晶画面が眩しくなりかけていた。
「中田さんも羽那ちゃんのこと好きだったりして」
「ありえない」
「いやいやセックスしたいって言われてひかないんだよ? ねえどう思うしょーこさん」
 憧子はうーんと唸り、眉間に皺を寄せて考え込む。わたしはかじかむ手を息で暖めようと必死だった。不意に二週間前の出来事が思い出されて切なくなる。手が冷たいとぼやいていたわたしに、游は楽しそうに言った。  冬はお互いカイロになろうか。
 コンマ一秒でばかな深読みをしたことはいうまでもない。
「現時点で中田さんが羽那ちゃんを好きっていう可能性は低いんじゃないかな。でも、だからといって絶望してここで関係を切るのはどうかと思う」
「努力する、なんて言われたのに?」
「暴言投げつけられることを考えてみなよ」
 あるいはそのほうがまだ楽なのかもしれなかった。気持ち悪いって、蔑まれたほうが。いまどうしようもなく痛いのは游のやさしさだ。
 わたしが黙っていると憧子は携帯電話をいじりながら叱るように言葉を紡いだ。
「このままじゃ二度と中田さんとまともに口聞けないかもしれないんだよ? 卒業式だってそのあとだって。これからのながーい人生ずっと。羽那ちゃんはそれでいいの?」
「……もう吹っ切るもん。実際この一週間大丈夫だったわけだし」
「本当に大丈夫だった? 泣かなかったはずはないでしょ?」
 当然図星である。ぜんぜん、大丈夫なんかじゃなかった。そう装っていかなきゃならないだけで。
 反論しようと口を開きかけた瞬間、耳慣れたメロディーが聞こえてきた。心臓が締め付けられる。
「……『ボーイフレンド』」冴莉は愉快そうに呟き憧子と目配せしあう。「さあ羽那ちゃんどうする?」
 音は一向に止む気配を見せない。久しぶりに耳にするその旋律に、サブディスプレイの発信者の文字がにじんだ。
 繋がりを断ち切ってしまうことは容易い。それこそ指先でボタンを軽く押せばすぐ。だけどそこで拒んだ言葉が、いつの日かも同じように手に入るだろうか?
「……もしもし」
 背後で拍手と歓声が上がった。


「耐えられなかった」
 たった一週間でも、あなたのそばにいられなかったこと。涙混じりに言ったのはわたしだったか游だったか。 「どうしても駄目かな。キスとかそれ以上のことができないと」
「駄目とはいってない」游の口ぶりだとわたしがほんものの欲求不満みたいだ。「ただ……どこまで理性がもつかはわからない」
 いたたまれなくなったわたしの目線は冴莉がこいでいるブランコに逃げた。憧子は寒そうに首をすくめてときおり冴莉になにか声をかけている。ふたりとも帰らないのはわたしに対する思いやりなのか単なる好奇心なのか、はたまた冷やかしなのか。全部だな、と結論が出たころ、游がほほえんだ。
「羽那」
 身構えたわたしに予想外のひとこと。
「なんかかわいい」
 静まり返った宵の公園ではちょっとした声でもよく響く。ブランコのふたりがこっちを振りむいてにやついたのをわたしは見逃さなかった。
「どうして?」
「ん、まあ」と游は答えをはぐらかす。「この前――っていうかいままで、ごめん。あのあといろいろ考えたんだ、どうすれば一番いいのか」
 にわかに脈が速くなった。動悸を抑えたくて游の肩に寄りかかり制服をつかむ。決してわたしをはねのけることをしない、なつかしい温もり。
「まっっったくわかんなかった。私は羽那と一緒にいたいけど当の本人は辛いから無理。じゃあ関係を恋人に変えようと考えても、私にその気がないからただ酷なだけ」
 その気がないって言葉だけが耳の奥に残ってこだました。わたしは一体何度振られればいいんだろう。
「羽那は本当にこのまま離れたい? 違うよな、電話出てくれたんだから」
「離れたくない……けど離れたい」
 さすがにもう多くを語らずとも真意を汲み取ってくれたらしい。游は途方にくれたようにためいきをついた。自分と游の体温の境界線がだいぶぼやけてきている。暗闇は片思いの相手といるべき場所ではない。
「游、だめだよやっぱり、離れなくちゃ」
「え」と游は目をまるくした。「いきなりなんで」
 游がわたしをむいて喋るから、鼻のあたりに白い息がかかる。思わず涙が出た。わたしもばかだけどこのひともおなじくらい、いやもしかするとわたし以上のばかだ。
 触覚だけが身体を支配する気がした。わたしはめいっぱい両腕をのばし游の上半身をだきすくめる。それからわざとらしくあごと頬に手をあてがい引き寄せた。
「わたしもう我慢できなくなってるもん。こんな、短時間で」
 游の瞳孔がみるみる開く。開きかけた唇から発せられるであろうつぎの言葉を聞きたくなくてわたしは游との間合いを詰めていった。北風がびゅうっと音を立てて吹き抜ける。


  「はいタンマ!」  突然割り込んできた大声に、本気で心臓が飛び出るかと思った。
 我にかえって声の主を向く。憧子はわたしを指差して声を張り上げた。
「羽那ちゃん、それ以上はキョウセイワイセツだよ」
 強制猥褻、と脳が漢字変換するのにしばらくかかった。ひどい言い種だと思ったけど間違ってはいない。
「中田さんも、無自覚なんだろうけどめちゃくちゃ誘ってるし」
 おそるおそる顔を窺うと、游はぽかんと口を開けていた。珍しく間抜けなその様子に状況を忘れてついくすりと笑ってしまう。
「憧子さんなに邪魔してるのよー」
「じゃっ……あのままキスしたらふたりともあとになって傷つくじゃん!」
「えぇ? ムードぶち壊しだよ、わかってないなあ憧子さんは」
 目の前でコント、もとい論戦が始まった。なんでこのひとたちは他人の色恋にこんなにも熱くなっているのだろう。
「ああもう冴莉はちょっと黙ってて。とにかく、いまのままじゃだめだよふたりは。ということで中田さん!」唐突な憧子の指名を受けて游がはっと顔を上げる。「いまから羽那ちゃんとつきあいなさい」
 真剣に耳を疑った。なにをいっているのだ憧子は。
「ま、まってよ、この流れでつきあうとかおかしいでしょ」
「ていうか部外者が決めんな」
 游はキツい発言をすることがままある。憧子は臆せず続けた。
「部外者だからこそいうの。ふたりじゃ結論出ないんでしょ? 中田さんは羽那ちゃんとつきあうのがいや?」
「いやではないけど」
「けど?」
「羽那に」とわたしのほうをちらりと見る。「失礼だろ。恋愛感情ないのに」
「あのね、羽那ちゃんはとっくに傷ついてるよ、中田さんの好意がライクであることに。だからいまさらそんな心配は、言い方わるいけど無意味だよね。それとも羽那ちゃんに触ったり触られたりするのに抵抗があるの?」
 もうやめて、と大声で叫びたかった。返事なんて聞きたくない、わかりきっているから。
「ちがう」
 え、と声が漏れるより先に游の指がわたしのてのひらをとらえていた。
「さっきいったのと同じ理由で渋るだけ」
 となりからつよい眼差しが憧子にむかっている。頭の中が混乱してものを言えなくなった。
「なら問題なしだ。しばらくつきあってみて、結論を下すのはそれからでも遅くないよ」
「だねー、羽那ちゃんも遠慮なく中田さんを襲っちゃえるし」
「……冴莉はオブラートに包むってことを覚えようよ」
「あいにく粉薬はヨーグルトにまぜる派なもので」
 わたしの手を握る力が強まる。游はちいさく吹き出してからわたしに囁いた。
「よろしく」


 よかったあ、と游が心底安堵したように口にする。
「なにが?」
「これからも羽那と一緒にいられる」
 寒さも並んで歩けば気にならない。游のスカートのポケットのなかで繋いだ右手はすっかり汗ばんでいた。
 つきあっていくうちに中田さんの気持ちも変わるかも、と憧子は言った。変わらないかも、とも。
「可能性がゼロじゃないなら、懸けてみようよ」
 頷くしかなかった、と今になって思う。
「羽那」
「なに?」
 游は俯き加減にほんのりと頬を赤らめていた。街灯の光でようやく認識できるくらい。
「してもいいけど」
 目的語がわからなくて問い返すと、游は急に立ち止まった。七センチ上の瞳が必死になにかを訴えている。
「だから、……さっきの続き」
 続きだなんて、なかなか乙女チックな思考回路を持っている。わたしは真っ正面から游に抱きついた。游の動揺が手に取るようにわかる。
「游」
「ん?」
 肝心なことを、わたしはまだきちんと伝えていない。
「好き」
 ぐちゃぐちゃしたなか、わすれていた。こんなに単純なことを。
 短い静寂のあと、游は片手でわたしの頭と背中を撫でてくれた。やさしい感触は、まだわたしだけのもの。


[08/11/11]
2style.net