海あをければ /2


 あのときが初対面だったと言いきった游は、わたしのことをなにも知らないんだと思う。困るのは、このやるせなさが誰のせいでもないことだ。
 名残にすべてを傾けた去りし日の休み時間から、わたしの恋だけが加速し始めてしまった。どんどんどんどん、きみからとおざかる。 


「な、中田さん……どうしたの?」
 そのときの游の瞳の色は、さながら猫のそれであった。慌てて体を起こし裏返った声を発するわたしとは対照的に、指先まで固まったまま沈黙していた。わたしの口は機関銃のように中身のない言葉を継ぎ続ける。さっきも言ったけど無理しないで、辛かったら早退したほうがいいよ。ここでもう一時間休んでいくのもありだし。その場合は保健委員の仕事手伝ってもらおうかなあ。
「あ、いや」ようやく、壁何枚にも隔たれた、渇いた声がした。「忘れ物。授業の途中で来たから教科書とか」  そう言いながら游は部屋を渡り歩き、教科書を左手に持つとその場でまごつくようにしてからわたしに向き直った。
「ふとん片付けるのも委員会の仕事?」
「うん」とわたしは満面の笑みを浮かべたはずだ。「そこで寝るのは違うけど。あとで怒られちゃうから、先生には内緒にしておいてね」
 弁解めかぬよう、一語一語を慎重に。わたしの水面下の努力に、游はまんまと引っ掛かってくれたらしい。拍子抜けしたみたいに表情をふっとゆるめ、自分の勘違いにこめかみを押さえる。りょーかい、という一言と無邪気な笑顔を残して部屋を去っていった。
 わたしは全身の気が抜けてまたパイプのベッドの上に横たわった。薄手の羽毛ぶとんを口元まで引き上げると、わたしの世界にはあたたかい匂いが充満する。匂いに温度などなくとも、游のからだの残り香は確かにぬくもりを伴っていたのだ。
 北校舎の二階の保健室の隅のベッドのちいさな暗闇のなか、わたしはじっと息を潜め目眩を受け入れていた。


 その名のとおり、游は水面をたゆたっているような、とらえどころのないひとだ。うねりをあげるその青にわたしは散ることができるだろうか。
 そっちへ行こうともがけばもがくほど、足が縺れる目がくらむ。決して脆弱な意志ではない。だけど游の細長くてきれいな指がその唇をなぞるのをみたりすると、挫けている自分がどこかにいるんだ。


[08/10/02]
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