乙女の祈り
「夢みたいだ」
我ながら柄にもないことを言ったものだと思う。ミズキはすばやくあたしの方を向き、一瞬表情を綻ばせかけてからまた眉を寄せた。一時でも喜んでしまった自分を叱るみたいに。
「そんなことないよ」
言いながらミズキは床に落ちていた白いチョークを窓の外に放った。あたしは下にいる誰かにぶつかったらと考えぎょっとしたのだが杞憂に終わってくれた。それもそのはず、今は夜の十一時。校庭は無人に決まっている。どうやらあたしは少し混乱しているようだ。
「明日怒られるかな」
「そりゃあ」とあたしはちょっと笑った。「ばれれば、な」
「だよね」とミズキは頬杖をつく。「意外と平気かもね。たぶん家を抜け出したことも気づかれてないだろうし、制服だからこのまま朝までいれば早めに来ました、で通るし」
あたしは頷きながら納得しかけて、いや待てよと思い直した。
「それだと朝親にばれる」
「あ」ミズキの顔がみるみるうちに曇っていく。「そうだ、盲点だったわ」
ミズキはうーんとうなって黙り込んだ。広い校舎の中に、あたしとミズキ二人きり。学校分の沈黙はあまりにも重い。
ミズキの両親は離婚した。性格の不一致、らしい。とてもありふれた理由だしそもそも昨今離婚自体がありふれている。したがって大した不幸でもない、というのは限りなく極端で無責任で客観的な、要するに馬鹿な意見。あたしは間違ってもそんなことは言えない。同じような事例がいくつ存在しようと辛いものは辛いし苦しいものは苦しいのだ。
とにかくミズキの両親は離れて暮らすことになり、ミズキはこことは言葉も風習も違う地方の町へ引っ越す。六日前にいきなり世界地図をあたしの目の前に突きつけ、「こうやって見ればすっごく近いから」とすがるように言ったミズキの声はか細く震えていた。
「いいじゃんばれたって。最後に思いっきり心配かけてやれば」
口に出してから、しまった、と思った。案の定ミズキは薄い笑みをたたえて唇をかんでいる。感情をあまり露にしないミズキが傷ついた時の癖だ。あたしはどうしていいか分からずにごめんと声を張り上げた。
「ばか」とさっきよりは色味のある笑い方をする。「そうだね、怒られたら文句言ってやろう。マコトもフォロー役買ってね」
もちろんとあたしは返事をした。教室の古びた石油ストーブの音が響く。しばらく間をあけてからミズキは不意に切り出した。
「じゃあさ、最後に」
と言葉を切る。自分だって使ったくせに最後という言葉の響きに身震いがした。
「マコトの制服着たい」
「……なに、お前。変態?」
「なんでもいいよ。変態でもなんでも」
そこまで言うとミズキは声を詰まらせた。続ける言葉を探しているようだった。下を向いたかと思えば急に顔を上げてあたしの目を見据えたりわざとらしく手で口元を覆ったり。そして困った様子で口を開く。
「なんでもいいんだほんとに。一瞬でいいから安心したい。なにかに寄りかかってたい」
いよいよ泣き出しそうなミズキの声色は、14歳の子供がいかに無力かを見事に物語っていた。あたしだってミズキと別れないで済む方法なんてひとつも思いつかないし、考えることさえむなしく感じてしまう。親の下で暮らしている身であることをこれほど憎く思ったのは初めてだった。
そしてミズキの苦痛はあたしのそれには遠く及ばないほど深い。あたしは今あたしのためだけに悲しんでいるけど、ミズキは違う。幸福は大抵幸福を伴い不幸は大抵不幸を伴う、なんて言葉を残したいつかの誰かを呪ってやりたくなった。人間万事塞翁が馬、のほうがよっぽど素敵だ。まったく非のないものに当たりたくなるのも子供の特性なのかもしれない。
「マコトはさ、ちゃんと幸せにならなきゃだめだよ」
学校の安っぽい机越しに覗き込んだミズキの目は怖いくらい穏やかだった。
「それが私の幸せだから。絶対に」
子供――とりわけ中学生――についてもう一点挙げておくと、愛とか夢とかそれから幸せだとか、やたら大げさな言葉を好まない。それだけにミズキの言葉には重みがあった。無理をしての一言だとあたしが悟ってしまいなおさら。
「あたしはお前と幸せになりたい」
「やだ、なにそれプロポーズ?」
言い終えてから自分の言い回しの恥ずかしさに気づき、穴があれば入りたくなった。が、ミズキも即答したように見えて実のところわずかな間があったという事実に少しだけ救われる。
「私だってそう。当たり前じゃない。でも現実は見なきゃだめだと思うよ」
不思議なことに、というか、世の中には物好きもいるようで、信じがたくもあたしは隣のクラスの一人の男子に言い寄られていた。ミズキはそのことも含んでいるのだろう。もちろんあたしにそいつを相手にする気はこれっぽっちもない。
「……マコトは今だからそう思えるんだよ」
エスパーかと本気で思った。どうしてあたしの考えが読めてしまえるんだろう。
「いつか自分にとって何が最善だったのか気付いて、そのときに後悔しても遅いもの」
「分かったような口利くな!」
視界の隅にちらと星が映る。ミズキは申し訳なさそうな顔をするだけで、あたしの叫びはどこにも受け止められなかった。それがありがたかった。
遠くにいながらでも繋がる術はいま、山ほどある。手っ取り早いところではケイタイ、インターネット、少々古臭いところでは手紙など。
でもそんなものも結局は無意味なのだと知った。気休め程度にはなるかもしれないが。傍にいない限り、相手を感じるのに五感すべてを使うことはでき得ないのだ。
そう思うと急に悲しくなった。いままでよりもずっとリアルで生々しい悲しさだ。
「ね、星きれいだよ。学校で夜中にこっそり星を見てるなんて昔の自分に自慢してやりたいな。あとね私、あなたのこと好きだった。ずっと。そういえば昔――」
ミズキはまるで前もって用意した台本を読み上げるかのように淀みなく喋り続けた。とくとくと注がれる水みたいなその声をあたしは遮る。
「なんで過去形なんだよ。過去形なのかよ」
「まさか。言葉の綾だってば。いまだって大好きだよ」
「……複雑」
確かに星はきれいだった。だがそれが何になるというのだ。あたしはもうだいぶ荒んでいる。
「ごめんね。いろいろ言いすぎた」とミズキは主語をごまかした。「マコトはいまこうやって、夜なのに教室にいることが夢みたいって言ったのよね?」
その質問が数分前のあたしの発言に対するものだと分かるまでにそう時間はかからなかった。無言で頷く。
「でもね、夢なんかとは絶対に違う。夢は実体がないいつわり。私とマコトがいまここにいるのは、いつになったって事実だし真実」
あたしはミズキの話し方が好きだった。声も仕草も顔も身体も何もかも全部、どうしようもなく好きだった。試しに過去形にしてみたけど結果激しい不快感が残っただけだ。明日からあたしは当分幸せになんてなれないだろう。
あたしは席を立ってミズキの冷たい手を引いた。十一時半、コドモは眠る時間だ。うすく埃が積もった教室の床に二人で寝転がる。ミズキはなんだかとてつもなく嬉しそうに、おやすみ、と呟いた。あたしは返事の代わりにミズキの髪を手で梳く。
ミズキの理屈は半分当たって半分間違っていた。
夢はいずれ覚めるのだ。
ミズキがそのことを踏まえていたのかどうか、あたしには一生見当もつきそうにない。
ゆっくりと閉じられるミズキの瞼を見てぞっとした。背中に寒気が走り、夢なら覚めないで、とどこかの御伽噺で聞いたような陳腐な台詞が頭をよぎる。朝なんか来るな。
[08/??/??]
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