※一応前の続きです
天使の梯子


 悪い予感がした。いっこうに埋まらない二つの空席。私はなけなしの勇気を振り絞って右手をあげた。
「すいません」教室中の物音が止む。「あの、頭痛がするんで保健室行っていいですか」
 またすぐにざわめきが戻ってきた。ぼんやりとした家庭科教師は「あ、いいよ行ってきな」とあっさり承諾し、クラスの七割は無視している栄養素の授業を続行させた。
 そうやって教室を出てきたことをあたしは早くも後悔し始めていた。あれは予感なんていうぬるいものよりも、どちらかというと予知や確信に近い。人間ってどうして自分が痛い目に遭うとわかりながら引き返すことが出来ないんだろう。
 養護教諭が欠勤し出してからまもなく、保健室は現保健委員長の川井サナエの領域となっていた。川井さんは一言で言うと優等生、だ。加えて容姿端麗、いろんな人からの信頼も厚い。彼女の穏やかで嫌味のない大人びた笑顔には、きっと人を引きつける強い作用がある。
 その川井さんとクラスメイトの本田リョウが揃って授業に出ていない。理由は容易に想像がついた。本田さんが怪我を負って川井さんはその手当てをしているのだろう。そんなことは問題じゃない。私が懸念しているのはその後のことだ。
(……ちがう別にそんなんじゃなくてっ)
 違うのだ。嫉妬とかではなくてただ純粋に自分の友達同士が妙な関係を持つのを防止しようとしているだけで。そんな苦し紛れの自分の言い訳に嫌気が差した。
 保健室に続く廊下は人気がなく静まり返っている。足音をたてないように注意を払いながら歩くと、不意に小さく川井さんと本田さんの会話が聞こえてきた。そうか、このくらい静かだと声が漏れてしまうんだなと思い保健室側の壁に耳を当てる。我ながらくだらないことをしていると呆れたけど、この際些少なプライドは潔く捨てることにした。
 決定打はたったの二言三言。それまでの「予感」は悪い現実へと形を変え、私の中に暗い影を落とした。
 二人はベッドの上にいるらしい。外からは死角になっていることが私にとっては救いだったのかそれとも発火源となったのか。私は露骨に足音をたてて歩を進め、行進するみたいに保健室のドアの前でぴたりと静止した。ひとつ深呼吸をしてドアを二回ノックする。途端に部屋の中の空気が変わる気配がした。私はガラ、と勢いよくドアを開け放った。頭の中に浮かんだすべての感情が混ざりあってなにも考えられなくなっていた。早足になってベッドの周囲の白いカーテンを開けると予想通り、というか悔しいことに、二人が驚いた面持ちで頭を並べて寝転がっていた。私は咄嗟に川井さんと目を合わせ巨大な違和感を覚えた。川井さんはいつもの温和な表情はしていない。普段のそれがわざとらしく見せ掛けだけのものに感じられるほど、透明でまじりけのない微笑をたたえて無防備に横たわっていた。
 考えられる理由はただ一つ、本田さんの存在だ。川井さんにとって彼女は心から気を許せる相手なのだろう。今まで同じ教室にいてそれはよく知っていたけど、今度こそ完全にあてつけられた感じがした。もっとも二人にそんな意図はなかったのだけど。
「あの川井さん、そろそろ授業に来たほうがいいよ」
 無意識に口が動いていた。もしかしたらそれは心の底からの切な願いだったのかもしれない。
「うん、ありがと言いに来てくれて」
 川井さんはあっという間に普段の笑顔に戻って優しく言った。その様子に私は打ちのめされ、どう足掻いたって本田さんには太刀打ちできないということを改めて痛感させられた。
 開かれた窓の外、空に浮かんだ雲の切れ間から白い光が放射状に落ちている。川井さんの端正な横顔も眩しい陽射しに照らされ、それはそれはきれいだった。  


[08/03/19]
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