〜 学 校 概 要 〜
東北高校は仙台市の青葉区小松島にある小松島キャンパスと泉区館にある泉キャン
パスの2つの校舎を持つ男女共学の私立高校である。だたし昭和期までは男子校で佐
々木主浩(横浜〜MLBマリナーズ)や斎藤隆(横浜〜MLBドジャース)などが甲
子園に出たころは当然生徒は男子しかいないわけで応援席にいたチアの女性は市内の
私立女子高の友情応援を呼んでいたらしい。
〜 野 球 部 史 概 要 〜
学校創立は明治27年と大変県内でも古く、野球部はその10年後を経た明治37年に創
立。
■松尾監督時代
甲子園に初出場した昭和5年から昭和36年にかけては松尾勝栄監督が指揮をとり、
春1回、夏6回、計7回の甲子園出場を果たした。昭和5年に初出場を果たしてから
東北が2度目の甲子園の土を踏む昭和24年の選手権第31回大会まで19年のブラ
ンクを生じているがこれは一時期の間松尾が他県の学校に移り教壇にたっていたため
である。
松尾が指揮していた頃のチームの特徴としては大型選手がそろっていたことがあげ
られる。当サイト内にある宮城県の高校出身のプロ野球選手・東北編を参照される
とわかるが昭和32年から昭和36年の間で東北が5度の甲子園を出場を果たした
中で11人の選手がプロ入りしているが佐藤好夫、小川康雄、菊地秀之などほとん
どの選手が180cmを超える選手がそろっており、昭和30年代当時は170cm
を超える選手が大型選手と言われていたのであるから相当大型のチームであったに違
いない。松尾が指揮していた間の甲子園最高成績は昭和34年のエース波山次郎
(大洋)を擁したチームで準決勝まで進出。本来控え投手である嶺岸(大毎)が先発
し、即エースの波山にスイッチするという変則パターンでの準決勝進出であったが
準決勝の宇都宮工戦では延長まで接戦に持ち込むも波山の決勝エラーでサヨナラ
負けを喫した。
■竹田監督時代
昭和36年夏の甲子園出場を皮切りに県内からは気仙沼、仙台育英、仙台商などの
新しい
顔ぶれが甲子園出場を果たすこととなり、東北は低迷することとなる。指揮官松尾
が高齢を迎えたためである。そこで松尾の出身である国学院大学のつながりで
同大学OBである竹田利秋が監督に就任する。昭和43年から仙台育英に移る昭和
60年の夏まで春9回、夏8回、計17回の出場。松尾監督のチームの時のような
大型選手をそろえてくるというチーム作りではないものの、徹底した練習量の多さ
から寒冷地という練習量のハンデを克服し前評判の高いチームとの対戦も互角、
それ以上の力で戦えるチームを作り上げる。この頃のチームで特筆すべきは昭和
47年春夏で甲子園に出場したチームである。エースが2年生左腕岡嶋敏彦を中心
としたチームで竹田が選抜大会前から優勝を狙っていたというほどの自信作であった
。実際甲子園の舞台では岡嶋の快投もあってベスト4まで進出。その年の選抜優勝校
日大桜丘に雨中の決戦の中健闘するも3−2でサヨナラ負けした。同年夏も優勝の
期待が高かったが岡嶋の乱調で初戦で天理に4−6で敗退した。この時の春のチー
ムには珍しい左利きの二塁手佐藤順一がいた。なお竹田監督の元多くのプロ野球選手
が輩出されているがこの時のチームにプロ入りした選手は一人もいない。
■若山監督時代
昭和60年の秋から若山実監督が就任。昭和62年から平成5年夏までに甲子園
春2回、夏3回、計5回出場。この頃のチームで甲子園での最高成績は初戦突破
より上の成績はない。ただし平成元年秋の神宮大会ではエース加藤将斗(大洋)
優勝を果たしている。
■若生監督時代
平成5年秋から若生正宏監督が就任。平成16年秋に引退するまで甲子園
春5回、2回
出場、計7回出場。この頃のチームではダルビッシュ有(日本ハム)がいた平成
15年春夏平成16年春夏の4期に渡って甲子園に出場した時が特筆すべきである
。夏準優勝、1回(平成15年)、春ベスト8に1回の好成績を残した。中でも
平成16年の時のチームは控え投手に140キロのサイドハンドの真壁賢守や
夏の県大会予選で大会タイ記録の4ホーマーの横田崇幸などがおり、全国的にも
評価が高いチームであった。
■五十嵐監督時代
平成16年秋から五十嵐征彦監督が就任。平成16年秋から平成20年秋に
引退するまで甲子園
春1回、夏1回出場。最高成績はショートでキャプテンの加藤政
義(日本ハム)を擁した時の平成17年夏のチームでベスト8。準決勝でエース辻内
崇伸(巨人)、4番平田良介(中日)、1年生で5番を打つ中田翔(日本ハム)ら
を擁する優勝候補筆頭の大阪桐蔭と対戦し、東北の投手陣が平田に大会記録となる
1試合3ホーマーを浴びて6−4で敗れた。
■我妻監督時代
平成20年秋部内での集団暴行事件が発覚。その責任をとって五十嵐監督が
辞任。後継者としてコーチを務めていた我妻敏が監督に就任。就任1年目のチー
ムで平成21年夏の甲子園に出場。3回戦まで進出しMAX154キロ左腕
菊池雄星擁する花巻東と対戦し1−4で敗れた。
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東北勢の中でも春夏合わせて最多出場を誇る古くからの名門であり、41名も
のOBがプロの道へ進んでいる。これは全国では10位、東日本の学校で見ると
東京の私立名門早稲田実、日大三などを凌ぎ、1位の神奈川の
横浜高校に次ぐ2位である。(参照)
多くのプロ野球選手を輩出し、長きにわたって甲子園常連の座を欲しいまま
にした陰には代々の監督の力があってこそであるが、昭和の頃から東北を見て
きた高校野球ファンからするとやはり竹田監督の話題抜きにしては語れない
であろう。竹田が監督に就任した当初、北国勢学校は甲子園での組み合わせ
抽選で対戦が決まれば他の地域のチームは初戦は勝ったようなものだという
拍手歓声が上がっていた状況であった。それから雪国という地域が持つ
年間練習量の少ないハンデを補う練習方法を編み出し、前述に記している
自信作とまで言われるチームに育てあげた。他にもエース佐々木淳を擁した
チーム(昭和51年春〜昭和52年夏)や中条善伸(昭和54年春夏〜
昭和55年春夏)やエース佐々木主浩(昭和59年夏〜昭和60年春夏)
などの好投手を擁して記憶に残る数々の名勝負を繰り広げた。
また、高校野球の監督を引退した後も教え子たちが高校野球の監督として
甲子園出場を果たしている。先に紹介した佐々木淳は現在仙台育英で
監督をしている佐々木順一郎(のちに改名した)であり、若生正広(元
東北監督〜現九州国際大高監督)は竹田が就任して初めて甲子園に
出場した時の主将でエースである。(昭和43年夏)
■ユニホームについて
甲子園ではすっかりお馴染みの白地を基本とした黒のストライプの
入ったユニホームであるが、昭和40年代までは白地に水色の「TOHOK
U」のロゴが入ったユニホームであった。(帽子、アンダーシャツも水色で
ある)
■通称について
学校法人名が南光学園であることから地元では「ナンコウ」と呼ばれることも
あるが、さほど地元で通用している通称ではない。おそらくは地域名の「東北」と
学校名の「東北」が会話で混同しないようにするため生じている通称と思われる。
■OBについて
プロで活躍した著名なOBとしてあげられるのは投手では若生忠泰、若生智男、
佐藤政夫、佐々木主浩、斎藤隆、ダルビッシュなどが有名。若生両投手は兄弟。
先発の柱として活躍した。
佐藤政夫、佐々木主浩はリリーフ投手として活躍。
野手では伊藤勲が大洋の10年以上大洋(現在の横浜)のレギュラー捕手として
マスクを被り、安部理はチャンス強さを買われて8度日本シリーズを経験し、6度
の日本一を経験している。
いずれの選手も数字だけでは語れない活躍ぶりがウィキペディアで紹介されてい
るので関心のある方はそちらのサイトでの閲覧をお勧めする。
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